文部科学省の審議会における慶應義塾学長・伊藤公平氏の「国立大学の学費値上げ」の提言に波紋が広がっている。外野席で聞いているだけでも相当に厄介な話のようだ。運営交付金は国の財政問題に関係する。外部資金は、その額だけでなく、研究費の偏りや研究目的の制限もある。教育面では費用負担が問題になる。単なる学費の問題というよりも、将来の国家像や現時点での国家財政、経済界の要求、社会の容認、国民の意識などが関わっていて、どのような改革になってもどこかで妥協を求められそうだ。
いまや、知識層だけでなく庶民を対象にする教育機関として組織された大学は、企業としての経営問題にぶつかっている。現代の大学は、他の業種と同じで、景気や消費者(学生)の動向に左右される。研究費・教育予算・人件費・設備費は常に不足しているのに、最近の先端研究に必要な実験機器や設備には、べらぼうな経費がかかる。国際競争に晒されるなかで、国立大学も私立大学も生き残りに不安を感じている。国立大学の独立法人化は、運悪く日本経済の衰退期と重なった。その後のパンデミックや戦争など世界情勢の波乱でインフレが加速する中、国立大学の経営基盤になる運営交付金は減少した。これからの人口減少を考えると、悲観的な未来ばかりが浮かぶ。
国立大学の学費を上げるべきだという意見は、少子化が進むなかで、国の支援を受けている国立の優位性が、私立の質の低下を招くと危惧したことによるのだろう。人口減少時代に、能力の高い学生が学費の安い国立に取られれば、私立は競争力を失う。大学の運営が、日本国内の問題だけでなく、世界の動きと関連するようになって、学生の国際的な奪い合いが起こっている。日本の将来に関わる、かなり深刻な問題だと思わなくてはいけない。
近代化で、教育にも雇用機会にも市場原理が働くようになった。戦後、地方の人材を育成する目的で、各県に国立の二期校や医療系の大学が設立されたが、共通試験の導入や教育産業による偏差値の商品化で評価の一元化が進み、大都市の大学と地方の大学が序列化された。序列化は受験生の選択に変化を起こす。学費値上げの問題は、現在「国内単一市場」での議論になっている。しかし、グローバル化によって大学も変化しなければ生き残れない時代だという意識変化も要求されている。
あくまでも外野席からの目線なのだが、いつの時代にも英語の問題があるようだ。グローバルに人材や資金が移動するようになると、言語の壁は、日本に限らず非英語圏にとって圧倒的に不利な条件である。研究の質に関わる世界レベルの教員や大学院生の確保でも、経営に関わる学生や寄付金の確保でも、誰もがアクセスできる情報がなければ無視される。競争に必要なアクセス可能な情報がなければ、グローバル競争そのものから除外される。教育や研究の内容だけでなく、大学の財政やマネジメントに透明性がなければ、教員や学生や寄付者の選択の指標にならない。国内市場だけの評価基準では、留学生の勧誘どころか自国の優秀な学生の海外流出を招きかねない。外野席から眺めていると、学費の問題が提起されたということは、日本の大学が教育面でも研究面でも経営面でも危機的な状況になっているのではないかと、大いに心配してしまう。
だからといって、いまの英語教育の方向性には大いに疑問がある。学問に必要な英語が、共通テストのリスニングやスピーキングの試験で測れるとは思えない。語学の専門家でも教育の専門家でもない者がこんなことを言っていいのかどうかわからないが、学問に必要な英語(外国語)は、読書量と深い読み込みにかかっていると思う。「日本人は英語の読み書きはできるが、会話が苦手だ」というのが定説になっている。けれども「読み書き」というのは、どの程度のことを言うのだろう。本当に日本の大学生は英語の文献を苦労なく読みこなしているだろうか。母国語のようにすらすらと英語の手紙や書類や学術ペーパーを書いているのだろうか。
ネイティブの書いた、内容的にも文章的にも質の高い数多くの書物を、深く掘り下げて読みこなすことのほうが、英語力は高まるような気がしている。機械的な翻訳ではなく、言語が含む文化を理解しなくてはならない。集中力を要する作業で時間も必要だ。大学で学ぶ英語は、観光客におもてなしをするような会話ではない。試験のための機材を導入したり、外部に採点を依頼したりするコストをかけなくても、大学に入ってから大量の外国語資料を読ませる方が、語学力が身につきそうだと思ってしまう。オックスフォードの苅谷剛彦氏が繰り返し述べていることに、授業で多くの課題が課せられる海外の大学に比べて、日本の学生の教室外の学習時間の少なさがある。但し、課題を出し評価する教員側の負担も大きくなる。
授業料値上げの問題は、大学教育無償化の提案から、交付金の増加、奨学金の充実、学費の大幅値上げまで、どれも満足できる解決策にはなりそうにない。いろいろなところで見かける資料では、日本では、各国に比べて大学の公費負担が少なく、家計負担に頼っているのだそうだ。大学の収入も、独立法人化以降、ブランドで外部資金を稼げる大学と、地方の大学では条件が違い過ぎる。一律に議論できる問題ではなさそうである。
学費が圧倒的に家計の負担によるのだから、当然「親ガチャ」問題が顕在化する。実際に世界中で起きている現象だが、子供の教育は家庭の「経済的・文化的資本」に左右されている。80年代のアメリカでは、既に「エリートがエリートを再生産する」と言われていた。両親ともに学位を持つ高収入の家庭の子が、学費の高い有名大学に進学して学位を取得し、高給を得る職業につく。これが世代を超えて繰り返されることによって、階級間の分断が進み、固定化される。
学費の値上げは、エリート層に有利に働く。能力が高くても貧しい学生には給付型奨学金で解決しようという案があるが、給付型奨学金を全員がもらえるわけではない。全員が対象になったら、大学無償化と同じことになる。給付資格は成績と親の年収制限で決まるのだろう。優秀な学生を支援することは重要である。しかし、値上げで負担増の実害を被るのは、普通の家庭の中間レベルの学生ではないだろうか。かなり高い能力を持ち学習意欲があっても、給付型奨学金の対象になる最高レベルにはちょっとばかり届かない、富裕層ではない家庭の学生たちである。彼らは社会に出てから上部の中間層を形成する学生たちであるが、家計にゆとりがなければ貸与型の奨学金に頼ることになる。アメリカでも貸与型奨学金の返済に一生を費やす話がよく聞かれる。中間層の厚さは国力に関係する。国の指導層となるトップレベルの学生だけが大切なのではないだろう。
苅谷剛彦氏は、日本の学生の教室外の勉強量の少なさについて、その原因のひとつが、アルバイトにあると言っている。毎週、山のような課題が与えられれば、アルバイトをしている暇はない。確かに日本は「学生アルバイト募集」という貼り紙が当たり前な社会である。親に全面的に頼れない学生は、貸与型奨学金の他にも、学費や生活費を稼ぐためにアルバイトをしている。自宅通学の学生でも、小遣い稼ぎのアルバイトは普通である。社会全体が「学生アルバイト」という非正規従業員の労働力を当てにしているところがある。アルバイトは、教室外での学習時間を確実に削っている。
もう一つの原因が就活である。これについても、苅谷剛彦氏や竹内洋氏が、海外の大学から見ると異様なことだと、しばしば述べている。大学生活の最も充実した時期に、長期にわたって就職活動のために学業を休むのは、本当はおかしな話である。企業の優秀な学生の獲得競争と、学生側の卒業後の生活不安から、卒業前にさっさと就職先を決める。これは、新卒一括採用で決める経済界にも責任がある。卒業後、三か月でもいいから「失業手当」のようなものを出して、その間に面接や就職試験を受けるような制度にはならないのだろうか。アルバイトと就活で、せっかくの勉強の機会を削られれば、大学教育の質が下がる。但し、勉強量が少なくても卒業できる大学も多く、アルバイトだけの問題ではないかもしれない。
外野席から見た大学の問題は、制度や学費だけにあるのではないような気がする。ふと思うのだが、地方の国立大学が元気だったころは、エリートではない人々が幸福な時代だった。価値観が一元化していくにしたがって、人々は不幸になった。情報が増えて選択肢が広がったように見えて、現実に選択できる未来が限られていることに気がついた。情報が多いだけに、自分の居場所が不幸に思える時代になってしまった。大学の一元的な序列化が、東京一極集中を加速させている。地方大学の学生は、就職にも不利な条件下にある。地方の大学の「復権」は、学生の生活費やアルバイトや就職の問題を、少しは緩和させるのではないだろうか。
グローバル化は、どの分野でも、英語圏の陰謀ではないかと疑ってしまうくらい非英語圏にとっては不利だ。留学生の争奪戦で言語の壁は厚い。日本文学や芸術など日本固有の文化を学ぶ目的ならともかく、世界共通の分野なら日本語で勉強するメリットはない。日本語を勉強してでも、日本に留学したいというインセンティブを与えるには、その分野の突出した業績が必要である。いまの日本の大学は、世界の教育市場から外されていると言えるだろう。グローバル・メリトクラシーに組み込まれた世界の大学の格付けは、国境を越えた職業選択を可能にする。留学生を集められる大学は、そのような特権的な学歴パスポートを与えられる大学である。大学の国際的な序列化は、留学生獲得による外貨獲得に利用されている。日本の大学は、そのような序列を指標とすべきなのだろうか。
グローバル・メリトクラシーと国内のメリトクラシーの二重の序列は、格差を拡大させるだけだろう。序列化した社会で上層部にいる人々は「有産階級oligarch」であって、彼らにとってはとても居心地がいいはずである。自分たちを支えているヒエラルキーを、自ら崩壊させることはないだろう。固定化された階級を、私たちはどこまで容認できるのだろうか。
大学には、蔵書をはじめとして有形無形の知の蓄積がある。学生証は多くの機関にアクセスを許される有難いものだ。グローバルに一元化された世界に組み込まれるための評価の獲得という目的ではなく、大学という知の世界を自分自身の成長のために利用するという意識を、学生の側で持てないだろうか。たとえ教育予算が増額されても、一元化した世界を疑わなければ変化は起きない。
・『大学とは何か』吉見俊哉著 /岩波新書 2011
・『オックスフォードからの警鐘』苅谷剛彦著 /中公新書ラクレ 2017
・『アメリカの大学の裏側』アキ・ロバーツ 竹内洋著 /朝日新書 2017
・産経新聞 「国立大 学費上げジレンマ」2024.7.26
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