『カッサンドラの日記』76
橋本由美
ヒマラヤの氷河が加速度的に融解する中、中国はチベットの大峡谷で三峡ダムを凌ぐ巨大な水力発電所の建設を進めている。
それは単なるグリーンエネルギー政策などではない。アジア全域の河川の源流を握り、下流域の国々の生死を分かつ「水」のバルブを支配するという、中国の100年先を見据えた恐るべき国家戦略である。自然の脅威と地政学が交錯する、新たな「水支配」の危機を読み解く。
ネパールと中国の国境付近で起きた「岩氷雪崩」による土石流の凄まじさには呆然とした。建物を飲み込むほどに大きく波打った土石流が物凄いスピードで襲い掛かり、すべてをなぎ倒して行く様子を捉えた、中国国境検問所の監視カメラの映像が何度も再生されたが、まるでジオラマを見ているようで、現実のものとは思えなかった。温暖化で氷河が融けることは知られていても、春先に根雪が融けてチョロチョロ小さな流れを作るような「長閑な」光景を思い浮かべてしまう私にとって、あのエネルギーは衝撃だった。
氷河の融解は一様ではないらしい。今回のランタン・リルン山北壁の氷河崩壊は、氷河の下の永久凍土、つまり、土壌や岩石の中に含まれている「凍って結合していた水分」の融解によって、氷河の重みを支えていた「土台」部分の強度が落ちて崩壊したのだそうだ。土台ごと崩壊したのであって、氷河という表層部分だけの問題ではなかった。このところの加速度的な「変化」のスピードは、安定した環境を保てる条件の閾値を超えてしまったことを示しているようだ。シベリアの永久凍土の融解も進んでいて、もうすでに生態系に影響を及ぼしているし、永久凍土に閉じ込められていた、人類にとって未知の菌類が活動を始めるという。
氷河の融解が及ぼす直接的な影響は、海氷の融解よりも多様で予測が難しいのではないだろうか。今回のように氷塊に蓄えられている位置エネルギーが、落下によって運動エネルギーに変化するとき、氷塊の高さや落下する氷塊量や落下地の地形など初期値の違いによって、被害の様相や規模が異なって来る。最初の落下の結果が新たな原因となって、次々に起こる原因と結果の連鎖が想像を遥かに超える被害を生む。しかし、長期的に見れば、海氷であろうが氷河であろうが、大規模な融解がもたらす影響は経験による想像の範囲を超えるもので、如何に喰い止めるかではもう間に合わず、如何に避けるか、如何に逃げるかが優先される。
この氷河地帯に、中国はダムの建設を計画している。中国の土木工事、とくに運河建設に懸ける情熱には並々ならぬものがあって、記録は春秋時代にまで遡る。呉王夫差が大運河の最初の一鍬を掘ったと史書に記録されるが、これが人工運河・邗溝の開削の始まりである。中国の主要な河川は東西に流れる。農地の灌漑や物資の輸送、軍隊の移動に河川が利用されたが、南北を結ぶ河川はなかった。
歴代の地方の覇者たちは自国での人工水路の開墾に力を入れた。公的な文書から思想書や文学詩歌に至るまで、賦役について多くの記載があるのは、大規模な土木工事が絶え間なく行われていたことを示す。土木工事は、為政者にとっては国造りに欠かせない事業であり、官吏にとっては重要な職務、民衆にとっては過酷な賦役義務であった。宮殿造営や城壁の建設、万里長城のような防壁や王族の墳墓など、常に大規模な土木工事が行われたが、人工運河の建設も重要な国家事業のひとつだった。
隋の煬帝の大運河建設は、それまでの地方政権が開墾した地域運河や古い溝渠や自然河川を繋いで、揚子江河口の杭州から淮河を経て黄河流域を結ぶ水路を整備する大掛かりな事業だった。広い国土を移動するために、それ以降も運河や水路が造られ、全土に網の目のように張り巡らされている。
近代になると、山岳部の河川には治水と利水のための大規模な貯水湖の建設が始まる。河川を堰き止めて人工湖を造り、取水口で下流への水量を調整して洪水を防ぐ「治水」と、灌漑用水や水道水、工業用水などを管理する「利水」が貯水湖の目的である。そこには貯水湖から落下する水の力で発電所のタービンを回転させる水力発電所が建設された。
中国で現在進められているのが、世界最大のダムと言われる三峡ダムを3倍も上回る規模の「ヤルンツァンポ川下流水力発電所」の建設である。ヤルンツァンポ川(雅魯蔵布江)はチベット高原を東方向に貫き、チベットの古都ラサを過ぎてから南下し、インド東北部で西に向きを変えてブラマプトラ川と名称が変わる。バングラディシュに入って南に向かい、ガンジス川河口付近でこれに合流してベンガル湾に注ぐ。
ヤルンツァンポ川(雅魯蔵布江)
中国側のヒマラヤ山脈でヤルンツァンポ川が南下するとき、ちょうど盲腸のような形に湾曲して向きを変えるが、ここは大峡谷である。峡谷の平均の深さは2268メートル、最深部は6009メートルに及ぶ。湾曲部分の手前(米林県派鎮)で人工的に流路を変えて、下流(墨脱県墨脱鎮)向かって直線的・垂直的に流れを落とす計画が「ヤルンツァンポ川下流水力発電所」の建設である。(昨年8月に『日記』53の冒頭で、この計画に触れている。このときはまだ着工前であったが、2026年7月に工事が始まった。)
ラサ付近のヤルンツァンポ川

(出典:Wikipedia)
ヒマラヤ地帯の河川は西から東へ流れるが、これはインドプレートがユーラシアプレートに衝突したときにかかった圧力で生じた断層「大地の皺」を流れているからだ。プレート運動が大きな地震を誘発するのは、日本列島と同じである。ダム建設に懸念を表明しているのは下流域のインドやバングラディシュだけではない。中国地質調査局などの研究チームも、活断層がある地域での建設リスクに警鐘を鳴らしている。
北極、南極に続いて、ヒマラヤは第三の極地と言われる。北極海の海氷が融けているように、ヒマラヤの氷河も融解している。ヒマラヤの氷河は、10年前と比べて65パーセント速いペースで質量を失っているそうだ。氷河が後退すると岩石や堆積物で堰き止められている湖が拡大し、温暖化によって永久凍土や高山の斜面が不安定になって、連鎖的な災害が発生しやすくなるという。
チベット自治区では多くの地域が自然保護区に指定されている。巨大ダム建設予定地も、世界最北端の熱帯雨林にあり、さまざまな大型ネコ科動物や有蹄類、オナガザルの新種など、ここにしか棲息していない動物や古代樹木が見られる「山岳のガラパコス」的な太古の森である。ダム建設がこの貴重な生態系を壊してしまうことは確実である。昨年、ヤルンツァンポ大峡谷国家級自然保護区の91万ヘクタールのうち、4万2000ヘクタールが、プロジェクト用に指定解除された。しかし、該当する地域の位置情報はない。国家の機密保持として、この計画の詳細な情報は発表されていないのだという。この不透明さが、ますます周辺国の不安を掻き立てている。
中国は世界最大の二酸化炭素排出国である。現在、中国政府は2060年までにカーボン・ニュートラルを達成させるために、グリーンエネルギーに力を入れていると言われていて、水力発電所の建設も、グリーンエネルギー・プロジェクトの一環として位置づけられている。しかし、巨大ダム建設そのものが大規模な自然破壊であって、グリーンどころか大きな矛盾である。
この地区では、建設資材を搬入するために、森林や崖を切り拓いて大型車両が通行できる道路の建設が始まっている。ダム建設現場までの道路建設は、崖を切り崩し、コンクリートで幅を広げ、トンネルを掘削して、地形そのものを変える。峡谷の地形に力が作用すれば、地滑りや崩落の危険を招く。トンネルや岩盤の掘削のための爆破は、雪崩や地震活動を誘発しかねない。
ヤルンツァンポ川の巨大ダム建設は、インドにとって深刻な問題である。インドは中国と国境問題を抱えている。国境紛争地から50キロしか離れていない川の上流でダムが建設されれば、ダム崩壊の被害は、中国よりもインドとバングラディシュが被るのである。ダムが無事完成したとしても、気候変動による冬季の水不足と夏季の氾濫という、近年極端になっている水の問題を制御するために中国国内の問題を優先させれば、下流域に想定外のリスクをもたらす可能性がある。ネパールであったような氷河融解が起きれば、自国を守るために、中国がどのような水量操作をして、どの段階で放水するのか、下流域ではわからない。ダムの水を一気に放出させることになれば、下流での被害が増大する。下流域の住民は、飲料水、農地の灌漑、漁業、工業用水、生活用水などの、ほぼすべての経済活動をこの川に頼っているのである。
中国のサイトで見かけるのが、このプロジェクトが、中国北西地域の黄河上中流域の農業発展に寄与するという見解である。黄河へ迂回させるという大計画を最初に知ったのは、かなり以前のことで、何で読んだのかさえ忘れたのだが、そのような水路の変更が可能なのか疑問に思って、記憶にひっかかっていた。今回、百度百科に、墨脱水力発電所が黄河上中流域の農業を発展させて食糧基地にするという見通しが書かれているのは、この遠大な計画に含まれている具体的な計画があるのかもしれない。どのような計画なのか、詳細はわからない。ただ、中国人の視点で「上流での一挙手一投足は、下流国の神経を逆なでする」とあるのは、他国への影響や彼らの反発を十分に認識しているのだろう。そして、それ以上のコメントがないのは、他国への配慮の意思はないということなのだろう。(あるいは、書き手としては、批判的なことを書くわけにはいかないのかもしれない。)
国境から50キロ付近の未開拓地域に、ダム建設プロジェクトのための交通網や通信網などのインフラを整備するのであれば、国境線の兵站を支える軍事目的が隠されているようにも思えて来る。現在の国境線「マクマホンライン」は、1914年にチベットと英領インドの間で結ばれたもので、イギリス領インド帝国の外務大臣で交渉の全権大使であったヘンリー・マクマホン卿の名前からマクマホンラインと呼ばれている。マクマホンラインは、ヒマラヤ山脈の稜線に沿って、ブータンから当時のビルマ国境までの890キロをいう。チベット政府とイギリス間の決定を、当時の中華民国は認めていない。周恩来は1959年の書簡でマクマホンラインを実効支配線として認識していたが、1959年に中印国境紛争が勃発してチベット反乱が起き、ダライ・ラマが亡命した。これ以来、中国はマクマホンラインよりも南に境界線を想定し、ブータンの国土より広い山岳地帯を自国の領土だと主張している。
下流域の国々に大きな影響をもたらすプロジェクトでありながら、ヤルンツァンポ川のダム建設工事に関する情報がほとんど国家機密として不明なのは、国境問題が関係しているせいかもしれない。ダム建設のプロジェクトは1956年の「12か年科学計画」によって、周恩来が指導して始まった。中国は、中印紛争後の1961年に調査団を米林県に派遣したが1962年にインドとの武力衝突で中断し、その後、国境周辺は小規模な衝突を繰り返して緊張状態にある。
山峡の地政学は、防御と攻撃の砦として、さらに重要な点は、そこがしばしば水源であるということである。チベットという山峡の地政学は水源の管理権にある。中国はチベットを決して手放さないだろう。チベット支配は単なる領土欲ではない。チベット仏教の弾圧や漢化政策や中華人民の統一などよりも、もっと恐ろしい目的が「水の支配」である。
世界の屋根と言われるチベット高原は、標高の高い山々に蓄えられた大量の氷河・氷塊によって、アジア全域の水源になっている。中国の河川のほとんどが、ヒマラヤ山脈やチベット高原を水源とする大河とその支流である。東南アジアや南アジアの国々も同様で、インダス川もガンジス川もチャオプラヤ川もメコン川も、ヒマラヤ山脈とそれに連なるチベット高原やパミール高原に水源をもつ。
今世紀半ばには、ヒマラヤ山脈の殆どの河川流域で「ピーク水位」に達すると予測されている。氷河の質量が減少するということは、氷が融解して水になることであって、氷河からの流出量が最大になるピーク時の水位のことである。しかし、その後は流出量が減少に転じる。融け始めた氷河は、初めのうちはそれ以前よりも多くの水量を下流に送るが、融解が進んで氷河がなくなれば、河川の流量は減少し、堰止湖は枯渇する。
極端な話、氷河がなくなれば、河川は降水と森林の保水力にしか頼れない。氷河による豊富で安定した水量が大河流域に文明を築いた。氷河の消失によって、河川は文明を保つのに必要な水量を維持できなくなる。不安定で極端に振れる近年の気象状況は、渇水か豪雨かの二択になってしまったようで、農業も漁業も、産業全体の見通しが立てられなくなっている。今年の夏の欧州の異常高温と乾燥は、ドナウ川の水位を著しく下げた。船の運航も原発の取水も難しくなって、流通や産業に大打撃を与えている。ヒマラヤ水系の氷河の減少は、それがアジア全体で起きることを予告している。
中国のダム計画や運河による水路変更での自国への引水(まさに我田引水!)は、今世紀後半には深刻になる「水」の問題を見据えた深謀遠慮である。河川やダムの取水と放水の管理は、パイプラインのバルブを握る産油国に似ている。チベットが、中国にとって死活的に重要なのは、下流域の国々への影響力を最大化できることにある。レアアースがなくても死なないが、水がなければ死んでしまう。
中国は、既に70年以上前からチベットの価値に気づいていた。周恩来の時代に100年先を見据えた計画を立て、鄧小平の時代に力をつけた。イランとアメリカの戦争では、両者の「時間感覚」の違いが現れている。ペルシャ文明も中華文明も、視界の距離がアメリカとは違う。国際政治においては、日本もアメリカ並みの短い時間感覚である。国の歴史は長くても、世界の荒波に船出してからまだ150年余りなのだ。長い時間軸を持つためには「学ぶ」しかない。
今回のネパールの土石流は、人々の目を気候変動と大災害の関係に向けさせたが、ユーラシアの大部分を占める地域の水源としてのチベット高原の価値にも、もっと目を向けなければならない。そして、世界の水資源の枯渇という未来を見据えた国家戦略を、子孫のために考えておかなければならないだろう。
Motuo水力発電所_百度百科
【解説】 ヒマラヤ山脈の氷河、急速に溶解 インド経済が「危機」に – BBCニュース
中国が進める「巨大ダム計画」の矛盾…グリーンでも安全でもない「世紀のプロジェクト」 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ネパール洪水、中国の不作為 /プラーマ・チェラニー / 日本経済新聞「Asiaを読む」2026.9.12
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