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【川端祐一郎】捉えやすいが解決しにくい「中産階級の弱体化」

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

 以前のメルマガでも少し触れたのですが、『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(玄田有史氏編、2017年)という本があります。経済学者を中心とする22人の研究者が16編の論文を寄稿して、日本の賃金が上がらない原因を様々な角度からデータを用いて実証的に探っていくというものです。(中にはデータを用いず理論的検討のみの論文も含まれます。また「人手不足」との関係の議論が中心で、デフレや低成長の問題と賃金の関係についてはあまり論じられません。)

 中には「賃金は実は上がっている」説を唱える人もいるのですが、全体を通してみていくと、90年代頃からの日本がいかに「労働者の弱体化」「中産階級の弱体化」を進めてきたかがよく分かる内容になっています。

 まず寄稿者の多くが共通して指摘しているのが、非正規雇用の大幅な増加です。全雇用者に占める非正規雇用の割合は、平成元年には19%だったのが今は40%弱まで上昇しています。しかも単に増加しただけでなく、日本の非正規雇用というのは、正社員との賃金格差が欧米に比べても大きい。

 非正規雇用が増えた背景には、もちろん高齢再雇用の増加もあります。しかし、旧日経連が1995年に出した悪名高い報告書『新時代の「日本的経営」』が象徴するように、企業側が意識的に非正規雇用の活用を進めてきたのは紛れもない事実です。この報告書は、労働者を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」に分けて活用していくことを提案したもので、「雇用柔軟型」というのが非正規雇用に相当します。そうした企業の要望を受けて派遣法の段階的な緩和などが行われ、非正規雇用はどんどん増えていきました。

 また、企業のガバナンスのあり方が90年代以降大幅に変わっていき、「株主重視」の経営にシフトしていったことで、賃金を抑制して短期的な利益を追求する姿勢が強まったということも、複数の論者が指摘しています。とくに外国人株主の割合がどんどん上昇していて、1990年には5%にも満たなかったのが、2014年には30%を超えてるんですよね。

 企業の経営が短期志向になると、人材育成やスキル蓄積への関心も薄れていきます。実際に、近年は企業内OJTの質・量が低下してきていると言われ、企業外で行う研修などの機会も大幅に減っているらしい。そして、そうしたスキル蓄積の機械に恵まれなかった労働者ほど、低賃金に留まる傾向があることも確認されています。しかも、企業が求めるような人材がなかなか育たないので、「人手不足感」が生まれます。

 他にも例えば、規制緩和によって過当競争が生じ、賃金が下がるという現象も存在し、本書ではバス業界の事例が取り上げられています。90年代から2000年代にかけてバス事業への参入規制が大幅に緩和されました。その結果、貸し切りバスや高速バス事業への参入が増えて、競争が激化した。そんな中で、例えばバス事業を抱えていた私鉄各社は、バス事業を分社化して別会社とし、その際に給与体系を私鉄本体から切り離して新たに設計し直して、大幅に賃金を抑制したようです。

 本書では他にも、就業者数が最も増えている医療・福祉業界で「介護報酬のマイナス改定」などが行われたことや、就職氷河期世代の賃金低迷の長期化など、色々な議論が行われています。どの議論にもそれなりの実証的根拠があるので、寄稿者の一人である近藤絢子氏は、「何か一つの原因を取り除けば、一気に人手不足が解消されたり、突然賃金水準が上昇し始めたりするような単純な状況ではない」と言います。これは、当たり前の平凡な指摘にも思えますが、割と重要であるように私には思えます。

 上述のような賃金抑制要因をみていくと、要するに企業も政府も、意図的だと言いたくなる形で「労働者の弱体化」「中産階級の弱体化」を進めてきたということが分かります。もちろんグローバル化による新興国との競争なども背景にあるわけですが、グローバル化それ自体も、ある程度は政策的選択の一つではあります。別の選択が本来はあり得たからこそ、欧米では反グローバリズムの運動が各地で高まりつつあるわけですよね。

 この労働者・中産階級の弱体化というのは、日本だけで起きているものではなく、先進国に共通する、かつ長期的に一貫した傾向です。1970年代から労働分配率はずっと低下し続けているし、「高賃金」な職と「低賃金」な職への二極分化もどんどん進んでいます。

 本書を読むと、「人手不足なのに賃金が低い理由」について様々な仮説が示されていて、いずれもがデータによってある程度裏付けられているので、今何が起きているのかを単純に描写することはできないなという印象を持ちました。ただそれでも、大まかに見れば、全体として生じているのは「企業・投資家への力のシフトと中産階級の没落」という一貫した流れであって、それ自体は捉えにくいものではないとも言える。問題は、それがあまりにも一貫して系統的に進められ、社会全体が細部に至るまで作り変えられてしまっているので、どこか一箇所を修正すれば元に戻せるという状況ではなさそうだということです。一国では対応できない問題だってありますし。

 系統的にまずい政策がたくさん実行されてきた分、それを逆転させるにも多彩な政策を系統的に打っていく必要があって、道のりは長い。そういう状況では、放っておけば議論はどんどん発散していき、なかなか収拾はつかないはずで、それがまさに今の日本でしょう。そういう時に必要なものこそ、状況の全体を捉える「思想」の力とそれに基づく合意形成ではないかと思います。

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