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【黒宮一太】「国のかたち」が問われる一大事

黒宮一太

黒宮一太 (京都文教大学准教授)

 米国のトランプ大統領の発言で、またもや米国内外に波紋が広がっているようです。

 一昨日(10月30日)公開されたニュースサイトのインタビューでトランプ大統領が「外国からやってきた者に赤ん坊が生まれれば、その赤ん坊は米国市民となり、あらゆる恩恵を受けられる。こんなことを認めているのは世界中で米国だけだ」と述べ、「これはバカげている。終わらせなければならない」と主張した、と報じられました。このことは、全米だけでなく、日本でも各種報道がニュースとして取りあげられています。
 
 米国では現在、米国の市民権をもっていない親の子どもであっても、また、不法移民の子どもであっても、米国で生まれた場合には市民権が与えられることになっているといわれています。市民権が与えられれば、選挙で投票する権利を得られたり、連邦政府からのサービスや援助を受けられるなど、さまざまな「恩恵」を受けられるというわけです。トランプ大統領は、このことを「バカげている」と考えているということなのでしょう。

 すでに報じられているように、米国生まれの子どもに市民権が付与されるということは、合衆国憲法修正第14条に規定されています。合衆国憲法修正第14条には、「アメリカ合衆国で生まれ、あるいは帰化した者、およびその司法権に属することになった者すべては、アメリカ合衆国の市民であり、その住む州の市民である」と記されています。したがって、トランプ大統領の発言は、この約150年前に盛り込まれた修正条項を変えてしまおうということを意味するわけです。

 各種報道によると、トランプ大統領のこの発言は、間近に控えた中間選挙を念頭においたものだともいわれています。不法移民対策に強い姿勢を示すことで保守層の支持を確実なものにする狙いがある、というわけです。米国が抱える移民問題こそが支持基盤の心をつかむ最も効果的な選挙戦略ということなのでしょう。

 その真偽はわかりません。たしかに、これまでのトランプ大統領による数々の発言から考えると、こうした各報道の「読み」も的外れなものではないのかもしれません。ただ、問題とすべきことは、「戦略」なのかどうかを議論することではないように思います。トランプ発言の「捉え方」にみられる、ある固定化された発想について考えてみることの方が、よほど大事なことのように思います。

 日本では、トランプ大統領のこの発言は、「自由の国」アメリカの国民になることに憧れる世界中の多くの人びとの夢を奪うことにもなりかねない深刻な事態だ、などともいわれています。「米国に生まれさえすれば、誰もが国民になれる」という「自由」、それを多くの人びとから奪う「ただならぬこと」、それがトランプ大統領の発言だと考えられているのです。

 米国国民の親をもたなくても米国内で生まれれば自動的に市民権が得られるという生得市民権は、アメリカという地に「自由の国」を現実化させた根幹の制度であるともいわれています。この「出生地主義」にもとづく国籍制度こそが、米国の「自由」の象徴の一つでもあるということなのでしょう。それは、「個人の自由の尊重」という近代社会の大原則を現実化させる制度であるともいえるでしょう。

 人が国籍を取得する基本的で重要な原因とされるものが「出生」です。そして、出生によって国籍を決定する基準となる要素には、主として「地縁」と「血縁」があると考えられています。前者にあたるのが「出生地主義」で、それは、ある国家の領土内に生まれた者は、その国家の国籍を出生と同時に取得するというものです。これに対置され、後者にあたるとされるものが「血統主義」と呼ばれる考え方です。それは、親の国籍を子が出生と同時に継承するというものです。

 この両者については、「血統主義」を「出生地主義」に比べ「排他的」であるとみなすというのが常套です。「血統」という「個人」にはどうにもならない要素によって国籍が強制されてしまうようでは、国籍決定における個人の自由意思が尊重されないではないか、というわけです。

 「誰が国民であるか」「誰を国民とするか」、このことは「国のかたち」を定める重要事項の一つです。もちろん、「誰を国民とするか」は国家の主権に属する行為です。ただ、近代以降、国家が個人の意思に反して国籍を「強制」することは望ましいものではないとも考えられるようになりました(遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史』)。だから、「血統主義」は、近代社会の大原則に照らして批判されてしまうことが少なくないのです。

 ですが、「出生地主義」も「血統主義」も、「国民」としての共属意識が何によって得られるかにかかわっています。「出生地主義」を採用している国では、出生国の同一性に依拠することが共属意識の醸成と国民統合に必要であると考えられているということです。国民としての共属意識は、「出生国の同一性」によってこそ得られるものと考えるのか、それとも、「親からの継承」によってこそ得られるものと考えるのか。それぞれの「国のかたち」をどのように考えるかが問われているのです。国籍取得の「個人の自由」の問題にのみ議論を回収してしまってよいわけはありません。「国のかたち」をつくる国民の精神性や文化の継承をどのようにおこなっていくかにつながる大事な問題なのです。

 いま日本では、外国人労働者の受け容れ拡大や移民政策などが議論されようとしています。まさしく「国のかたち」が問われています。少なくとも、そのときわたしたちは、時々で事情が変わってしまう選挙による戦略や経済状況の変化などによってのみ議論してしまってはいけない、そのことだけは明らかです。

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