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【川端祐一郎】靖国神社に「危機」をもたらしたもの

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

いま店頭に並んでいる『文藝春秋』12月号に、靖国神社の前宮司である小堀邦夫氏が、「靖国神社は危機にある」という手記を寄せておられます。小堀氏はちょうど1ヶ月ほど前に、靖国神社内部の研究会で天皇陛下を批判したとされる発言がマスコミにリークされ、宮司を引責辞任された方です。

私はこの小堀氏の手記しか読んでいませんので、辞任騒動そのものについて、誰が悪いとか悪くないとかいう論評はできません。ただ、小堀氏が提起されている問題そのものは重要であるように思いました。

小堀氏が辞任に追い込まれたのは、内部の研究会で「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ」(今のような慰霊を続けていると靖国神社の重要性は年々お忘れになるだろうという意味)というような発言をしていたことが明るみに出て、問題化したからです。小堀氏は手記の中で、行き過ぎた発言があったことは認めつつ、なぜそのような発言に至ったのかを説明されています。

小堀氏のもともとの問題意識は、「天皇陛下の靖国神社御親拝をいかに実現すべきか」という点にありました。私も実現していただきたいと願っているのですが、その意義についての議論はひとまず措いておきましょう。重要なのは、そういった靖国神社の存在意義に大きく関わる事柄について議論をしようとしたときに、靖国神社の内部の方々の意識があまりにも低いことに、小堀氏が危機感を覚えたということです。

もちろん、「天皇御親拝を実現すべし」という思いが他の職員の方々に見られなかったことは小堀氏の危機感の種となりましたが、そればかりではなかった。小堀氏の目には、靖国神社は財政的に恵まれ、神社本庁に属しておらず自由に運営できることもあって、全体的に緊張感がなく、神道や日本の歴史に関する知識や意識も不十分であるように映るそうです。私なりに要約すると、悪い意味での官僚化、つまり「小役人化」が靖国神社の内部で生じてしまっている、というのが小堀氏の指摘です。

たとえば、毎朝のお祈りを「朝御饌の祝詞」と言うらしいですが、靖国神社の場合、過去の戦争においてその日付で亡くなった方のお名前を読み上げるそうです。ところが、その名簿にあたる「歴略」という資料が、昭和7年を最後に更新されていないため、日中戦争や大東亜戦争で亡くなった方のお名前はいつまでも読み上げられることがない。「そのことに問題を感じないのか」と小堀氏が議論を提起しても、靖国神社の内部ではほとんど無反応であったと言います。

私は内情に通じているわけではないので、靖国神社が本当に緊張感のない、小役人化した組織となっているのか否かについて判断をしようとは思いません。ただこの手記を読んでいて感じたのは、仮にそれが事実だったとしても大して不自然なことではなく、「そりゃぁ、そうなるんじゃないかな」ということでした。

私は、小堀氏の指摘が正しいのだとしても、靖国神社の他の職員の方々が非難されるに値するとは思いません。というのも、我々世俗の一般国民の側が、靖国神社の果たしている役割というものについて十分に議論できているとは言えないからです。戦死した兵士を靖国神社にお祭りするということの意義に関して、社会全体の意識が低い中で、靖国神社内部の当事者にのみ緊張感やら高い意識やらを求めるわけにはいきません。

以前あるウェブサイトに、靖国神社の存在意義をどのように論理化すればよいのかについて書いた記事を掲載して戴いたことがあるのですが(「国家の輪郭」としての靖国神社)、字数制限がなかったせいでダラダラと冗長な内容になっていますので(笑)、今回の話と関係する1点だけを取り上げます。

靖国神社と聞くと、「中国・韓国の不当な内政干渉」や「左派による筋違いの批判」が問題の根源であると考える方も多いと思います。しかし私は保守派の靖国論にも違和感を覚えることが多く、特に靖国神社を「慰霊」(霊を慰める)、「哀悼」(死を悲しみ悼む)、「鎮魂」(魂の動揺を鎮める)の場であるとだけ規定して、それらは「人間の自然な感情」だから外国や左派の人々から文句を言われる筋合いはない、という論法を採ることが多いのが気になります。

靖国神社は、そういう穏やかな性格をのみ持つ施設ではなく、戦死した国民を「英霊」として「讃える」場でもあります。英霊の顕彰というのは、国民が国家のために死ぬことにも、国家が国民に死を強要することにも、そして外国民に暴力を向けることにも、時として強い公的な価値が宿るのだということの確認です。つまり靖国神社はその本質のうちに、その全部とまでは言えないにしても、荒々しい攻撃性を湛えていると考えざるを得ないのです。

もちろん攻撃性そのものに価値があるとは言えません。重要なのは、国家というのはそもそも、ある種の局面では烈しく残酷な攻撃性を持たざるを得ない共同体なのだということです。ことさらに外国と戦火を交えたいというのではなく、そうせざるを得ない時がいつかまた巡ってくるであろうという予感の中に、靖国神社の位置づけを見出さなくてはならない。しかしこの国家の烈しさというものを、我々日本人は普段、忘れているか忌避するかのどちらかで、それと向き合う姿勢を持ち合わせてはいません。

小堀氏もそうなのですが、神道の関係者が「鎮魂」の意義を強調するのは自然なことです。しかし国家の営みの中で靖国神社が占める位置を考えると、それは単なる宗教施設として解釈し切ることもできない。ところが国民のあいだでその種の議論が熟しているとは言い難く、靖国神社は日本の言語空間の中で、ずっと宙に浮いたようになってしまっています。それが靖国神社の真の意味での「危機」であって、内部の当事者の問題ではないだろうというのが、今回の騒動をめぐって感じたことでした。

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