こんにちは、浜崎洋介です。
もうすぐ『表現者クライテリオン』の最新号が発売されますが、今回は特集が豪華です。前半に「MMTと日本―現代貨幣理論の真実」と題した特集を組んで、純粋な経済学的考察から経済政策までの座談・論考を掲載し――内輪褒めになってしまいますが、MMTの信用貨幣論の正しさを認めつつ、国民国家体制下での商品貨幣論の幻想の払拭し難さを指摘した柴山さんの論考は、まさにクリティカルでした!――、後半に「『第二次世界大戦』とは何だったのか」という第二特集を組んで、『表現者クライテリオン』初登場の長谷川三千子先生をはじめ、野中郁次郎先生の論考、また表現者賞を受賞した新人・礒邉精僊氏の論考などを掲載しています――ついでに言えば、いつもの「対米従属文学論」も、今回は鹿児島特別編と題して、吉田満『戦艦大和ノ最期』と、島尾敏雄『出発は遂に訪れず』という二つの「特攻文学」を扱っています。
また、それにくわえて、最近いい傾向だと思うのは、「読者投稿」のレベルが上がっており、「投稿」を読むのが、編集作業の一つの楽しみになり始めていることです。
ところで、今回、そのなかに一つ気になった「読者投稿」がありました。佐々木広さん(神奈川県、22歳、学生)の「人のわる口」という編集委員に対する質問投稿です。
佐々木さんの投稿は幾つかあり、そのなかから、この度は「『努力』を批判する」という投稿文が掲載されることになったのですが、掲載されなかった「人のわる口」という投稿も捨てがたい。青年らしい愚直な物言いで、なかなか興味深い問題を提起しています。
佐々木さんの質問は次のようなものです。母か教師の影響かは分からぬものの、小学生の頃から「人のわる口や陰口をいうことを、ずっと我慢して」きたという佐々木さんは、「堂々と面と向かって文句をいうのが男らしさだという考え」もあって、「誰かの陰口を聞くと、卑しい奴らだと見なしてき」たといいます。しかし、そのために、他人との雑談(悪口トーク)に上手く加わることができず、結果、他人とのコミュニケーションを磨く機会を逸し、人間関係を上手く作ることができなくなってしまったというのです。そして、次のように問うのです――「人のわる口をいうことを拒絶してきた」ことは「実は間違いだったのでしょうか」と(佐々木さんの質問の全文はこちらに掲載しています)。
結論から申し上げると、すでに佐々木さん自身が薄々気づいているように、それが臨機応変の態度でなかったという点で、言い換えれば、「悪口」という人間にとって必要不可欠な営みにおいて、「下品な悪口」と、「上品な悪口」とを区別してこなかったという点において、やはり、それは「間違い」だったのだと思います。
というのも、一口に「悪口」と言っても、その性格は様々です。それは、排除の論理に基づいた単なる「悪口」(というより単なる罵詈雑言)から、自分にとっての「悪」を「言葉」によって脈絡づけてみせようとする努力(つまり、批判の努力)まで幅があります。
前者は、自分にとって一度「悪」(毒)だと感じられたものを絶対化し、それを時と所と立場を弁えずに拡大し、また、未来永劫変わることがない「記号」(レッテル)と化そうとする態度です。それは、「いじめ」の態度がそうでしょうし、また「差別」の態度もそういうものでしょう(ナチスは「ユダヤ人」という言葉を「記号」化しました)。
しかし、それでも否定されるべきでないのは、ここで生きられている自分にとっての「悪」を感じる能力です。そして、その感受性は、後者の態度、つまり自分にとっての「悪」を言葉によって適切に表現しようとする努力(上品な悪口)においても生きられている感覚なのです――たとえば「ユダヤ人差別」が論外なのだとしても、彼らがユダヤ人を通じて見ていたもの=金融資本主義への違和感は、それ自体は重要な感覚でもあるのです――。
ただ、両者で異なるのは次の点です。「下品な悪口」が、他者理解の努力を怠るがゆえに、人々の心に、単なる「恐怖」(受動)を引き起こしてしまうのだとすれば(だから、彼らの「悪口」は、他者を包摂する契機を失って、暴力と排除に向かい、それゆえ、ますます対象恐怖に囚われるという悪循環に陥ります)、「上品な悪口」の方は、「それが、なぜ、どのような文脈で悪(毒)になるのか、また、どのような距離をもてば、その悪と付き合うことができるのか、そして、その悪を切断すべきなのはどんな時なのか」という「問い」を伴いながら、それゆえに人々の「理性」(能動)を刺激することになるのです。
ということは、適切な「悪口」とは、文字通り、それが自分にとってどのように「悪」なのかを〈口=言葉〉によって整理する作業(他者理解であると同時に自己理解)なのであり、その「語り口」によっては、一つの現実から人を解放する「批判」(クリティーク=境界確定)にもなりうるということです。実際、聞いているだけで気持ちのいい「悪口」というものは確かにありますし、その可能性を信じればこそ、私自身も「文芸批評」などという仕事をしているのでしょう(たとえば、太宰治の志賀直哉批判、坂口安吾の小林秀雄批判、あるいは福田恆存の進歩派批判などは本当に気持ちのいいものですが、おそらく彼らは、居酒屋でも、ああやって人の「悪口」を言い合っていたはずです―笑)。
しかし、その意味で逆に危惧すべきなのは、お為ごかしの「道徳」によって「悪口」に蓋をしてしまったがゆえに、その「語り口」によって判断すべき「下品な悪口」と「上品な悪口」の区別がつかなくなってしまうことの方だと言うべきなのかもしれません。
たとえば、「共産主義」を罵倒しただけで、人は「善い悪口」を言ったことになるのでしょうか? 言い換えれば、「反共」「反朝日」、「嫌韓・嫌中」、「反日教組」の呪文を唱えただけで、その人は、保守的な「批判」をしたことになるのでしょうか。いや、それこそ「悪」に対する内在的理解=距離感を失った単なる「記号」操作ではないのか(しかも、この態度は、戦後の平和教育によって「いい子」に育てられたリベラリストが、しかし、平和主義に疑問を呈した瞬間、いきなり「罵詈雑言」を投げかけてくるのと相似形です)。
なるほど、私も、共産主義に「悪」を感じることそれ自体を否定しようとは思いません。が、それがどのような文脈での「悪」なのか、その時と所と立場を弁えた上での正確な理解なしでの「反共」は、それこそ「共産主義」的な「語り口」――単なる誹謗と中傷――に限りなく近づいてしまいます。いや、そうであるがゆえに「保守」は、「左」を批判するのと同時に、自分自身を単なる「右」とも区別してきたのではなかったか。
そして、それは今回特集に組んだMMTも例外ではありません。今、現在なされているMMT批判のうちで、どれだけのものが、その内在的理解の努力を経たものなのでしょうか――私見の及ぶ限りで言えば、柴山さんのMMT論を例外として、MMT批判の大半が誹謗中傷のレベルです――。しかし、もし、それが本当に内在的理解を経ていない言葉なのだとすれば、それこそ、私たちが徹底的に退けるべき「悪」なのではないでしょうか。
ちなみに言えば、だから私は、毎週、努力をしてでも、人の「悪口」を肴に酒を飲むようにしています。もちろん、それで人を不快(あるいは不安)にさせてしまうようなら、それは私の落ち度ということになるのでしょう。が、だからこそ、「悪口」には、それなりのテクニックが必要なのです。「それが、なぜ、どのように悪いのか」について、論理的、倫理的、心理的に語るだけでなく、「そうは言っても、そんな悪と共にある世界と自分自身」をも素直に認めること。人は、それをユーモア(距離感=余裕)と呼びますが、そんなユーモアを発揮することさえできれば、「悪口」は、私たちの強力な「悪魔祓い」の道具になると同時に、私たちの共同性を育ててくれる大切な糧にもなるはずです。
佐々木さんは、まだ若い。是非、自分自身に見合った「上品な悪口」を見つけてみてください。心身ともに、今よりずっと身軽に、そして明るくなること請け合いです。
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■佐々木広さんの投稿『人のわる口』
https://the-criterion.jp/letter/86_02/
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コメント
記事を人からご紹介いただき、見てみたら「ストンと腑に落ちた」感覚でした。
私はブログ運営をしています。ブログのコメントでは「批判(批評)」もあれば「誹謗中傷(非難?)」もあります。
私と異なる意見でも「ああ、なるほどこの人は、これが言いたいのか」という批判。
逆に「なんやこいつ、腹が立つ!」となる誹謗中傷。
直感的には、上記2つが「異なるもの」と感じてましたが、言語化は無理でした。
記事を読んで「あ、これやわ」と、ストンと腑に落ちました。
その感想をどうしても伝えたくて、コメントした次第です。