こんにちは、浜崎洋介です。
これまで私は、ウィルスや感染症、あるいは経済の素人である自分が、一知半解の理解で、ただでさえ情報過多な現状において、軽々に言葉を発するべきではないと思ってきました……が、非常事態宣言の延長が決まった今、さすがに堪忍袋の緒が切れました。
結論から書いておきましょう。私は、どのような事情があろうと、この「接触8割削減」による「過剰自粛」という不条理は、一刻も早く解消すべきだと考えています。
まず、現状を「過剰自粛」だと感じる理由を率直に述べておくと、私自身が「コロナ感染者」を見たことがない一方で、日常を奪われ、失業の憂き目にあい、生活苦に喘ぎ、将来不安に慄き、その人生を狂わされた人々を、毎日のように見ているということがあります。つまり、「8割削減」などというたった一つの「計算式」、「抽象」のために、私と、私の目の前にいる人々との生活が、具体的に破壊され続けているという現実があるのです。
なるほど、とはいえ、国民国家を営むには、ある程度の「抽象」が必要であることは否定しません。以前のメルマガで紹介したカミュの『ペスト』においても、医師のリウーが、「〔感染症という〕抽象と戦うためには、多少抽象に似なければならない」と語っていましたが、まさに、目に見えないウィルスとの戦いにおいて、人間的感情(具体)がときに合理的計算(抽象)に席を譲らなければならない状況があることは私も理解しています。
が、それは飽くまで「具体」を守るための「抽象」であることを忘れてはならない。つまり、「抽象」にも、程度やリアリティの幅があるわけで、それを一律の「8割削減」に見定めるのか、「手洗い・うがい・高齢者の自粛」に見定めるのかは、まさしく、私たち自身が守る生活の具体的イメージによって異なってくるのだということです。その「具体」を忘れてしまえば、私たちは、いつでも「抽象」によって殺されてしまいかねません。
しかし、そう言うと、必ず「お前は命より経済を取るのか」と言う人間が出てきます。が、そう言う輩は、むしろ「経済」をこそ舐めていると言っていい。「経済」とは、すなわち、日々の生活であり、その生活を支える生業であり、私たち自身の暮らしの異名なのです。それは「おカネ」を媒介としますが、単なる「おカネ」の問題ではない。人と人との接触、ギブ・アンド・テイクの関わり合いの中から生まれてくる感情の総体、喜怒哀楽の流れそのものなのです。覆水盆に返らずとはよく言ったもので、生活を「一度止めてしまう」ことの取り返しのつかなさは、まさに東日本大震災で、私たちが経験したことではありませんか。
しかし、だからこそ、「おカネ」だけを渡しておいて(金銭補償)、経済は止めておいてもいいのだ(ロックダウンを目指すべきだ)などといった言説は、ニヒリズムの肯定以外の何ものでもないのです。「金をやるから大人しくしておけ」などという言葉は、家畜や奴隷には言えても、日々の仕事と、その生活の中に喜びを見出して生きる「人間」に向かって用いるべき言葉ではない。しかも、政府が「おカネ」をケチっている現状で、安易に「自粛延長」を唱えることは、それ自体が、ほとんど不条理な暴力と化していると言っていいでしょう。
しかし、だからこそ、自粛の大義名分である「医療崩壊阻止」の掛け声にしても、それが、私たちの「具体」を守る上での「抽象」であることが自覚されなくなってしまえば、いつでも「暴力」に反転してしまいかねないのだという事は忘れてはなりません。何も私たちは、「日本医師会」や「医療」のためだけに存在しているわけではない。むしろ「医療」という行為は、私たちの暮らしや、生活を豊かにしていくための一つの「手段」でしかないのです。しかし、それが「目的」とされてしまえば、「医療崩壊阻止」の美名の下に、「医療」以外の全ての暮らしと人々の生活が犠牲にされてしまいかねません。この「対米従属」ならぬ「医療従属」のニヒリズムを、抵抗すべき「不条理」と言わずして何というのか。
事実、「病からの自由」を担保する医療行為は、消極的価値(死からの自由)にはなり得ても、その自由(命)を使って成し遂げるべき積極的価値(命を賭しても成し遂げるべきこと)にはなり得ません。人が「命」を守るのは、その「命」を使って何かしらの生産をする限りであって、その逆ではない。つまり、医療崩壊を防ぐ努力は当然だとしても、それは、飽くまで、私たちの生活(生き甲斐・喜び)を守る範囲内においてのことであって、そのために生活を過剰に犠牲にすべきではないということです。さもなければ、私たちの社会は、「生き延びる」ことだけを自己目的化した、生きる屍たち(ゾンビ)の楽園となるでしょう。
ただし、誤解してほしくないのは、だからといって私は、即刻、普通の生活に戻るべきだなどとは言ってはいないことです。ただ、出来るだけの感染予防の努力をしながら――三密の回避・手洗い・うがい・手で顔を触らないこと・高齢者などのコロナ弱者の自粛などなど――なお、最低限の生活の営みを守っていくことはできるだろうと言っているだけです。果たして、それで人が死んでしまうのなら、それはそれで「仕方がないこと」ではありませんか。そう言うことは、冷酷でも何でもない。単に当然の事実を引き受けているだけのことです。むしろ、その当然の事実を避けて、人々の生活を破壊し続けることの方が何百倍も罪深いのではないでしょうか。繰り返しますが、私たちは、決して「医療」のために生きているのではない。たとえ死んでも、「生活の喜び」(生き甲斐)のためにこそ生きているのです。
この「仕方のなさ」から逃げようとするから、「仕方がない」などということはあり得ないと考えるから、つまり、「封じ込め」は可能だというゼロリスク神話に囚われるから、「8割削減」などという「抽象」を、バカの一つ覚えのように叫びはじめることになるのです(ちなみに、無症状患者が多い新型コロナでは、「8割削減」の前提となっている、クラスター潰しによる感染経路の特定と、それによる封じ込めは間違いなく破綻します)。
よくよく考えてももらいたい、これまでも私たちは、肺炎による死者を毎年12万人以上出し続け(一日300人以上の計算)、インフルエンザでさえ年平均1万人の犠牲者(一日30人)を出し続けきているのです(補足すると、アメリカの2017年~18年におけるインフルエンザによる死亡者数は6万人です)。それに比べて、今年の2月から5月にかけての「新型コロナ」による死亡者数は一体どれほどにものなのでしょうか(5月5日時点で521人)。もちろん、「数量」によって個人の悲劇を図ることはできません。が、それなら、単純に「命」と「経済」とを天秤にかけるべきでもない。「経済」とは「命」なのです。
カミュは、その小説『ペスト』のなかで、旅行者でありながら、保険隊を結成するタルーという人物に、〈抽象的に人々に死を強いるもの〉の比喩としてペストを語らせていました。しかし、だとすれば、タルーが語る――あるいはカミュが描く――「ペスト」の不条理(致死率7割)は、弱毒性の「コロナ」には全く対応していないと言うべきでしょう。むしろ、〈私たちのペスト〉は、「8割削減」と「過剰自粛」の不条理にこそ当て嵌まります。
そして、小説の後半、疲れ切った一日を過ごした後で、タルーは、医師のリウーを、市のロックダウンによって禁じられている海水浴に誘いながら、次のように語るのでした、「せんじつめてみれば、あんまり気のきかない話だからね、ペストのなかでばかり暮らしてるなんて。もちろん、人間は犠牲者たちのために戦わなきゃならんさ。しかし、それ以外の面でなんにも愛さなくなったら、戦っていることがいったい何の役にたつんだい?」と。
この度の「コロナ禍」においても、政策の判断基準(クライテリオン)は、このタルーの言葉と違うものではないはずです。すなわち、私たちのクライテリオンは、人々の「共感」であり、「愛情」であり、その「温かみ」の保守にほかなりません。その他細かい政策は、その時々の状況を見定めながら――コロナの毒性、経済状況、人々の心理状態などを鑑みながら――、その都度、適宜比較衡量して決めて行くしかないし、決めて行けばいい。その「愛情」の基準において、捨てるところは捨て、得るところを得ればいいだけなのです。
果たして、私たちは今、政府の「過剰自粛」によって殺されかけています。が、同時に、私たちの人生を最後に守るのは、やはり私たち自身であることも間違いありません。政府が「不条理」を強いるなら、それに「反抗」(カミュ)することは、決して不道徳なことではない。むしろ、それこそが、私たちの「エートス」(その住み慣れた場所)を守るための最後のエチカ(倫理)なのです。人が何と言おうと、私たちは私たちの「生き方」を守る必要がある。それ以外に、私たちの「生き甲斐」など、どこにもありはしないのですから。
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コメント
ここ1年強、既視感を覚える社会の様子でした。
子ども達の育つ過程でたびたび思ったこと、「今『そのことで困っていない子』の親の言うことは、悪意でないだけにタチが悪い」、「人は自分の一番信じたいことを信じることに決めていて、それ以外の意見は何がなんでも否定する。その時の判断基準は必ずしも合理性や有効性ではない。多数派かどうか、それを提唱する人間に権力が伴っているかどうかは大きい要素のようだ」「『やらない理由を言うな』『そんなに不満を鳴らすなら自分がやれば(←不満ではなく、欠けている視点の指摘であっても)』『上に立つ人は大変な中で一生懸命考えて決めてくれているんだから』『まあ、今やってできないわけではないし』…等々は、ここから思考停止!と決めた時に便利に使われる言葉だ」…を、再び思い出す1年強でした。非難ではなく、議論してより磨いていくことがしたくても『思考停止ワード』で封じられる。
公共の福祉は、声の大きいものが勝つということ。
寂しい1年強でした。
表現者塾、表現者クライテリオンの存在を知るきっかけではあったのですが。
浜崎先生のこの文章を読み返して、表現者塾に出会えたこと、メルマガの配信をしていただけることをよろこんでいます。
浜崎さんへ。浜崎さんはチャンネル桜の討論番組に参加するたびに、コミュニティの大切さを訴えていますよね。人は一人では生きていけないという意識を芽生えさせる唯一の手段は、コミュニティに属する事だという主張だったと思います。私も全く同感です。ただ、もしよろしければ、その主張の中に強固または強固に類する言葉を付して、強固なコミュニティの大切さを伝えてほしいです。
例え話をします。ここに、ある大学1年生がいるとします。彼(または彼女)は大学で新しく出来た仲良し5人グループの一員だとします。5人のうち4人が、海に行く事に決めましたが、彼は行かないと言いました。その後、彼は誘われなくなって、グループ(コミュニティ)から離れてしまいました。
この残酷物語のような事が、恐らく日本中で起きていると思います。脆弱なコミュニティ、多数決に支配されたコミュニティ。確かに彼らはコミュニティに属しているけれども、コミュニティから弾かれないように、気を使いまくって、日々を生きている人が多いのではないでしょうか。特に大学生に多いかもしれません。
コミュニティに属する事の意味は極めて大きいと思いますし、それがなかったら成長はないと思います。ただ、もしもコミュニティに帰属する事を、多くの人達に勧めたいと思うなら、出来るだけ強固なコミュニティに属す事を勧めてあげてほしいです。大学のキャンパスでも、多人数グループの中に加わってはいるけれど、周りをキョロキョロしながら、愛想笑いという仮面で覆ったような学生がいませんか。こういったコミュニティに身を置きながら、心は置いていない学生が多いと思います。
浜崎さんの言論で、この状況に風穴を開けてほしいです。というか、神経衰弱を招くようなコミュニティに属するくらいなら、独りの方が良いかも・・・。
Yahoo知恵袋で「仲良しグループ ハブ」で検索して表示されるページをざっと見てみるだけで、自分自身が属するコミュニティの質がいかに重要かが見えてくると思います。だからこそ浜崎さんにはコミュニティの質にも言及してほしいと思っています。
今日は「興味深い話」をお伝えしたいと思います。
英国のミステリー作家の女王、アガサ・クリスティーの作品を最近読み返して、発見がありました。
「三幕の殺人」という作品の中で、「彼はインフルエンザだったから、嗅覚も味覚も全然感じなかった」という文章があるのです。
えっ!これは阪神タイガースの藤波投手のコロナ症状でしたね。
広辞苑でもブリタニカ百科事典でも「インフルエンザの症状は頭痛高熱四肢疼痛全身倦怠等々」で嗅覚味覚については言及していません。
ところが今から百年前ではごく当然の如く、上記の症状が述べられています。
現在一般の人は私も含め「味覚嗅覚障害とインフルエンザの関連」の事はご存知ないと思いますが‥‥‥。
今後、カレーやコーヒーの匂いや味が分からなくなったら、インフルエンザ感染を疑うように致します。以上です。
そもそも、現代日本人にエートスなりエチカがあるんですかね?ほんとですか?あったらこんな状況になってますかね?
私はテレビは見ない、スマホは持たない者です。
敢えて言わせて頂けるなら、自己の知性と感性を「鈍化」させないためです。より正確な情報は現在メディアトップの大手新聞紙で得るようにしています。
ですから今般のコロナ騒ぎ=と言える過剰自粛には又かという思いを抱きます。
思い出してください!!
サッカーのワールドカップが日本で開催された前夜を!!
イギリスのフーリガンが日本に上陸するのではないかとまさに厳戒態勢を引きましたが、「大山鳴動して鼠一匹も無し」、ではなかったではないですか。
過剰に反応している単なる「ビビり」だと思います。
「終息しても絶対、必ず第2波第3波が襲って来ますから。」なんて確定しているかのように言う人がいますが、誰が予言できますか!!
脅しに弱い国民性です。理由は「自己の主義」を持たないからです。横並びで生きていれば安心だから、敢えて真実と向き合う勇気を捨てているのです。
日本国と言うか日本人の性癖と言うか、一言で言うなら、「大人しい羊」なのでしょう。
羊は賢明ではありません。リーダーの犬に黙々と考え無しで付き従うだけです。
戦争中の庶民の愚行な行動パターンが繰り返えされていると思います。
正しい情報だけを入手し、コロナウイルスは科学者、特にウイルス研究者の話を聴くことが最も大切だと思います。
今迄に政府にどれ程嘘をつかれてきたことか!!
政府の発表を鵜のみにしない智慧だけは身に付けましょう。
御高論拝読、「接触8割減」のための「自粛」に対して私が漠然と感じていた違和感を明瞭に言葉にしてくださって、ありがたかったです。
確かに、「コロナにかからない」を第一にした生など、無意味極まるニヒリズムでしょう。そこは全く仰る通りとして。
ただ、そう言い切るには少しためらいがあるのは、コロナに、私がかかって私が死ぬだけなら、いいのですが、他人にうつしてしまうところでしょう。私とは全く違う価値観で生きている人もいて、そんな生は無意味だ、とは言えない、言えるわけがない以上、私がその人にとって死を運ぶ者になることはどうしても正当化されない。
その確率は、他の疫病(インフルエンザ)や、車で人をひき殺すのに比べて決して高くはないのですが、それこそ抽象ですからね。現に気にしている人の感情を無視するとしたら、やっぱり傲慢になります。
なので、なるべく外出を避けて、ほとんど家で生活しております。
一方それくらいなら、生活に困窮する人々にもっと目を向けねばならんはずだ、と藤井さんたちが仰るのは全くごもっとも。早くなんとかしないと、人災によって、コロナそのものより多くの生を奪いかねないこの事実に手を拱いていることは、これまた決して正当化されないでしょう。
確かに、自粛要請が過剰で人間としての生活を送れない日々が続いてます。
何の為に、生きるのか!こんな生活してたら、まさにニヒリズムに陥りますね。
ヒトとヒトとの繋がりよりも、物質的に必要最低限を満たしていれば(命さえあれば)生活に支障はないとでも政府は考えているのでしょう。
また補償や給付金も、右往左往した末に消極的な政策に落ち着きそうですね。
とクライテリオンの方々と同様の意見を持ちつつもその重要さを考えさせられる機会になっているのではないかと思っています。
このグレー色の世界において、これから何を優先して政治家を選んだら良いのか、個人の倫理、生活の中での慣習、伝統の重要さを実感しています。
そして、これからどんな国を目指すかという大前提を突きつけられているような気がしてなりません。
西部先生から始まり藤井さん達を始めとする先生方がずっと主張されておられた事が、現実として
目の前に現れている事を感じております。
勿論、私が100%同様という意見ではありませんが、
共感できる事もありコメントさせて頂きました。美辞麗句を並べてしまいましたが、いまの素直な気持ちとして…
素晴らしい論考をありがとうございます。
現在の自粛と補償をめぐる論戦については、藤井先生や浜崎先生の論調により強い共感を覚えます。小生は今、妻子とともに、英国にてロックダウンの中を過ごしております。経済的に問題ありませんが、社会的、文化的、人間的な様々な生活の要素が犠牲になっており、経済的補償があっても、このような措置を長く続けることは到底できず(せいぜい2〜3か月が限度でしょう)、長期化した場合の(同調圧力と他者への不寛容を伴う)社会不安は相当なものになるであろうと考えています。
日本にいる友人たちとのやり取りの中でも同様に感じます。日本のマスメディアを見ると、やたらと感染者など特定の誰かをスケープゴートにして叩く論調が多数で、(たとえ彼・彼女たちの行動に不手際や好ましくない要素はあるとしても)同調圧力と不寛容にまみれた世相にうんざりします。今の状況は全体主義の温床にあると言って差し支えないと思います。
他方、政治的には、現時点の日本においては、「自粛は仕方ないが経済的な補償を徹底せよ」、というシンプルなスタンスを強く打ち出す方が政治的な態度としては良いとも感じています。先日の緊急事態宣言延長に際しての総理会見を拝見しましたが、官邸は、1か月後には、緊急事態の解除ないし何らかの緩和を打ち出さざるを得ない政治情勢に自ら追い込んだと理解しており、「経済的補償なき何らかの自粛(という名の半強制的な社会・経済活動の抑制)の継続」に舵が切られる危険性が大きいと思われるためです。その点で、藤井先生が、出口戦略を模索する理由として、政府が十分な経済補償をしない可能性に言及していることについては、恐縮ながら、プレゼンの方法として少なからず危うさを感じるのも事実です。
一方で、他の方もコメント欄で言及されている「徹底自粛・徹底補償」論者の方々に対して強い違和感(ロックダウンの最中にいる者として苛立ちに近い感情)を覚えるのは、現在のあらゆる社会活動を自粛、というより反強制的に停止ないし鈍化させるやり方が、社会や人間心理そのもの与えうる甚大な影響に対して、何ら言語化しないまま(小生に見落としあればご容赦ください)、批評をされておられる点です。経済は社会に埋め込まれたものと認識できる能力があれば、当然、この点について何らか言及した上で批評を行うべきなのに、それがほとんど見られないのはなぜなのか。すべてを見通した上で、あえて政治的戦術でそうしたスタンスを貫かれているのであればそれは十分に理解できますが、1〜2年スパンで長期化すると予想されるコロナ渦の中で、社会や人間そのものをいかに守っていくのかという戦略も是非、論じていただきたいと思っています。
駄文を連ねましたが、まず経済的補償を徹底させるべく論陣を張りつつも、中長期的な出口戦略(医療の持続可能性に配慮した、合理的な範囲での経済・社会活動の抑制)を同時に議論する方向で、(小生ごときが言うことではありませんが)言論のアウフヘーベン、インテグレートが図られていくことを祈念しております。
>>この「仕方のなさ」から逃げようとするから、「仕方がない」などということはあり得ないと考えるから、つまり、「封じ込め」は可能だというゼロリスク神話に囚われるから、「8割削減」などという「抽象」を、バカの一つ覚えのように叫びはじめることになるのです
全く同感です。人間の世はそんな単純じゃないはずです。これまでもこれからも。目に見えないものを完全に避けることができると思うことがどうかしていると思います。完全に避けることができないものだとしたら、もう自粛をやめて、存在するけれども負けない、対処していくという行動にシフトしたほうが良いと思います。
素敵な論考をありがとうございます。
素晴らしい!全くその通り!よく言われました。感服!くぼこさん、まったく的外れな批判です。唐揚げ君3人前さんに的確に論破されています
言葉使ひに御気を附けなされ。「論破」などとさう容易に云つてはいけない。くぼこちやんの御意見には納得できないものの、我々が時に論理に傾きすぎることがあることはちやんと意識せねばならない。実は西部先生がさうでしたが……。浜崎先生の文章に感服する一方で、疑ひの目を差し向けることも大事だといふことです。時には意地悪な見方もしてみませう。さうしてなほ彼の言葉が信じるに値するものだつたら、それは本物でせう。浜崎先生もさういふ覚悟を以て文章をものしてゐるはずなのです。我々もよき読者でなければ
コロナは置いといて…行き着く先は国民国家とは何? でしょ。
私の中では、国民が政府に補償を求めた時点で終ってるの。(分断成立)
本来、政府は国民が要求する前に出すものです!
何故それが出来ないのか?
出来ない国家を国民が作ったからです。容認したからです。
西部氏が生きていればこう言うでしょ。
「ざまあみろ、ジャップ.COM」
追伸
自粛=補償
自粛解除=補償無し
誰が決めたの? このルール?
経済損失=補償でしょ!!!!!!!!
何故、自粛解除=補償無し、を簡単に納得するの?
これが、クライテリオンですか。これが、西部邁の遺志を継いだ者の書いたものですか。笑うほかない。
自粛緩和案を主張する藤井さんでさえ、「おカネを渡してもらう」補償は否定していないのに、あなたの場合は、金を受け取るのは奴隷・家畜だと言う。
今の貴方や藤井さん、また貴方がたと同じ意見を主張する人々は、政府に対して最善策や当然の要求を訴えず、自分たちの美学や机上の論理に酔いしれているだけです。
意味があろうがなかろうが、市井の人間は生きてゆくほかない。休業補償や給付金という金を受け取ったからなんだというのか。意味がないから死なねばならないとでも言うおつもりか? 頭を冷やした方が良い。また軍国主義のなんだのと誤解されてしまいましょう。
>自粛緩和案を主張する藤井さんでさえ、「おカネを渡してもらう」補償は否定していないのに、あなたの場合は、金を受け取るのは奴隷・家畜だと言う。
→浜崎さんはそんなこと言ってないでしょうに…(呆れ)
金さえ十分に配ればコロナ禍の全ての経済的問題が解決する、といった言説を広めている論者に対する批判ですよ!
>今の貴方や藤井さん、また貴方がたと同じ意見を主張する人々は、政府に対して最善策や当然の要求を訴えず、自分たちの美学や机上の論理に酔いしれているだけです。
→美学?酔いしれている?
逆に、「徹底自粛、徹底補償の要求」を謳う論者にはそういった陶酔傾向が見て取れますね(失笑)。
藤井さんほど政府に対して、正しい政策を求めている人を私は知りません。
補償を受け取って黙る=奴隷・家畜と浜崎氏が書いているだろう。というか、カネ渡して経済は止めろと言ってる論者って誰ですかね?
藤井案が正しいことを私も望んでいますが、正直、もし自粛緩和の根拠が全て間違ったらどうするつもりなんですかね。そこまで考えているんでしょうか。
おかしなことに、藤井さんたちと吉村大阪府知事ら維新系の連中(あれ? クライテリオンの試金石とも言うべき論敵ですよね)とどんどん意見が、思考が似通ってきているということです。いずれ維新の橋下らと藤井さんが一緒に笑ってカメラに収まる日があるかもしれません。
さらに結果的に、安倍政権を批判しながら、なぜか安倍政権側の動きに合わせて徹底補償を諦めてしまったことです。これは否定できないでしょう。「具体」なるものにこだわるあまり、自身らの思想的支柱を自ら曲げてしまったのです。藤井さんの側から「正しい政策」を曲げてしまったんです。
それを擁護するのが今回の浜崎氏、あるいは次に「コロナ自粛はやりすぎ」論を書く論者の目的だと思うのは勘ぐりすぎでしょうか。
しかし、何を言いたいのかさっぱりです(笑)。
前段では勇ましく「自粛緩和」を叫び、ロックダウンは「ニヒリズムだ!」と説いておきながら、後段で言い過ぎたと思ったのか「しかし私はいきなり普段の生活に戻れとは言っていない」とコソコソと言い訳めいたことを書く。
なんなんですかね? 呆れたのはこっちです。
そして「具体」がないのは誰だよ、とも言いたくなります。
この問題は、国連安全保障理事会のいい加減さを表してしています。それから我が国とすれば守銭奴の財務省と愚劣の政治家それから不埒の限りを尽くすマスメディアと、様々にリンクしております。その中から論じるならば、やはり様々な角度からの安全保障の問題しかあり得ません。しかしマスメディアでは、それがタブーで、これまでの安全保障の核心部分には触れず仕舞いでした。このことを国民の皆さんが、きちんと認識しない限り、同じ事は繰り返されるのです。それは有名人の麻薬問題から沖縄の基地問題など多種多様に幾重にも存在するし、それらは形や性質まで変えてでも手段を選ばずに我々に襲って来る宿命だと認識するべきです。
言い出したくても言い出せなかったことを勇気をもって発言した浜崎さんに敬意を表したいと思いました。
私など根性なしは、
自粛が過剰すぎるだろう、このままでは社会そのものが壊れ、今生きている私たちだけでなく、ご先祖様に祖先の皆様にも償いきれない禍根を残してしまう
と思っていてもどうしても主張でできずにいました。
人と人との交流を断つという事は人が社会から切り離されていく、それは孤独を生み共同体意識を奪う。
そしてそれが日本のナショナリズムをさらに毀損させ、ますます個人主義に走らせてしまう。
権力者がのさばり、犯罪が横行する。
このまま過剰自粛を続けていては社会そのものがおかしくなってしまうという危惧があって、浜崎さんが今の社会の風潮に異議を唱えたことはすごく意義のあることだと思います。
ご主張が大変明確で、以前中野剛志さんが、施光恒さんとの対談で、
自分の中でなんとなく思っていたことを明確にするようなもの、それが名著だと述べられておりましたが、浜崎さんのご主張はまさにこれに当てはまるものだと思いました。
>「金をやるから大人しくしておけ」などという言葉は、家畜や奴隷には言えても、日々の仕事と、その生活の中に喜びを見出して生きる「人間」に向かって用いるべき言葉ではない。
この文にとても共感を覚えました。
人間とは人と人との間柄、相互に行為的に関連することによって人は存在する。
伊藤仁斎が述べられていたことですが、これ以上社会が社会として機能しなくなってしまって、さらに経営が切迫し、明日を生きるのも不安でしょうがない事業者や従業員、労働者の人々の人生を奪う事にもなり得る。
冷静にそして肚を据え、ある種の運命を引き受けつつ正しい判断がなされることを切に望み、そうなるよう私も主張したいと思いました。
浜崎さんの仰る通り、現状は過剰自粛だと思いますので、自粛は緩和されるべきでしょう。
某S氏はTwitter等で「自粛緩和を訴える者は、政府に緊縮財政を正当化させる口実を与えることを覚悟すべし」と仰っています。確かに、これは戦術論としては頭に入れておくべきことかとは思いますが、同時に、非常に愛のない発言と感じます!
たとえ政府から100%の補償を引き出せたとして、そこには補償までのタイムラグという時間的制約があるのですから、自粛を緩めて最低限の売上を確保しつつ、それでも足りない分は政府へ請求するのが現実的です。
そもそも、今まさに困窮している方々を「人質」にとり、政府から財政出動という解を引き出そうとする姿勢は到底受け入れられません!
GDPが1〜2割毀損することはほぼ確定的でしょうから、それをもって「堂々と」財政出動を要求すれば良いと強く思います。
補足ですが、
某S氏は「わが国に「過剰自粛」は存在しない。補償なき自粛による過剰な経済被害があるだけだ。」
と繰り返し仰ってますが、本当にそうでしょうか??
この言葉、初めて聞いた時もの凄く違和感を覚えました。
彼には、人々の精神的・肉体的な幸福が過剰自粛により失われる、という視点が決定的に欠如していると思います。
論理的整合性に拘泥するあまり、人々の幸福に対する観点が抜け落ちていると感じております。過剰自粛による幸福の毀損は、金では埋め合わせできないのです!!(※清貧になれ、と言っているのではありません)
…と書くとおそらく、
「その幸福とやらは、自粛緩和によりもたらされる経済被害により、いっそう毀損されることは間違いない。これを認知的不協和と言わずして(略)…」
とか仰っしゃりそうなのでこの辺で。。
>そもそも、今まさに困窮している方々を「人質」にとり、
>政府から財政出動という解を引き出そうとする姿勢は
>到底受け入れられません!
>GDPが1〜2割毀損することはほぼ確定的でしょうから、
>それをもって「堂々と」財政出動を要求すれば良いと強く思います。
何が言いたいのか意味不明です。
>「その幸福とやらは、自粛緩和によりもたらされる経済被害により、
>いっそう毀損されることは間違いない。これを認知的不協和と
>言わずして(略)…」
さらに意味不明です。
「自粛緩和によりもたらされる経済被害」って何ですか?
「戦術論」だの「認知的不協和」だの、
凡人には理解しづらい語を振り回されても
チンプンカンに拍車をかけるだけです。
自粛が過剰だというなら、もう普段の生活を取り戻せ! 働かせろ! とアメリカでもそうしたデモがあったように、藤井・浜崎その他自粛緩和派が旗を振ればいい。
「緩和」ではなく「解除」を唱えればいい。西浦は間違っている、と言っているのだから、堂々と俺たちを開放しろ!と言えばいい。
それができないなら、やはり「強制封鎖」+「補償徹底」を求めるよりない。平和を勝ち取るには備えが必要なはず。
浜崎氏の論は、さながら平和主義的論者が「人間の平和や幸せのために過剰防衛は必要ない!」と駄々をこねているのと同じです。
とにかくコロナ関連の対応に関しては見損ないましたね。器論の時もアレ?と思う節がありましたが、今日ほどではなかった。
信者め、と思われるかもしれませんが、今のところ「クライテリオン」を失わずにいるのは佐藤氏一人だけだと思います。