『表現者クライテリオン』メールマガジン

【川端祐一郎】「うっせぇわ」と「15の夜」—おじさんはなぜ礼儀作法にうるさいのか

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教) 

最近、若い人の間で「うっせぇわ」という歌が流行っていると知りました。特に、年長世代に対する不満や怒りや軽蔑を綴った挑発的な歌詞が話題になっているようです。

表面上「優等生」に見えるように生きてきた若者が、大人たちの思う意味で「行儀の良い振る舞い」を強要されることに嫌気が差すという話で、それ自体は昔から珍しいことではないのですが、不満の具体的内容が多少現代的ではあります。最初に感想を言っておくと、世代の差もあって半分ぐらいしか共感はできないのですが、今の若い人たちの感情が分かりやすく表れているのだろうとは思いました。

「うっせぇわ」ミュージックビデオ

「うっせぇわ」歌詞

「あなたが思うより健康です」と言いたくなる気持ちは、よく分かります。年長者というのは、自分たちが若かった頃の姿に合致しない若者を見ると、そこにいちいち「病理」を感じてしまうものなのですが、当の若者たちにとってはそれが自然な生き方なのであって、心配されたり改善を求められたりするのは鬱陶しいということでしょう。

ただこれは、自分の世代が持っている特有の生活感覚から自由になることが難しいという普遍的な問題であって、お互い様ではあります。

以前、原田曜平氏の『さとり世代』という本を読んだら、消費、恋愛、未知の経験などに対する意欲が総じて低いとされる「さとり世代」(2010年代に学生生活を送った人たち)の若者がインタビューに答えて、「上の人たちは僕らのことを心配してくれるのですが、僕らからみるとむしろ、バブル世代とかのほうがクレイジーですよ」というようなことを言っていました。若い人から見ると、おじさんおばさんたちの昔話のほうが、病的に聞こえるということですね(笑)

次のような規範に対する不満もよく理解できます。

「最新の流行は当然の把握
 経済の動向も通勤時チェック
 純情な精神で入社しワーク
 社会人じゃ当然のルールです」

確かに、世間の流行に少しでも遅れを取ると「使えない奴」の烙印を押されるような風潮は嫌なものです。これは、15年ほど前に就職した私の世代にもあったし、もっと上の世代でも似たようなことはあったのではないでしょうか。

私は大学時代の一時期、マスコミに就職したいと思っていて、エントリーシートや作文の書き方を指導してくれるセミナーに通ったことがありました。私はテレビを観たり週刊誌を読んだりする習慣がなかったので、スポーツや芸能のニュースに疎かったのですが、そのことを講師から「情報収集不足」として責められることが何度かありました。こちらが門を叩いたのだから恨みはありませんが、「ワイドショーを観て芸能ニュースに通じているのが偉い」というような価値観には耐えられないと判断し、マスコミを志望すること自体をやめてしまいました。

5年ほど前にスマホゲームの「ポケモン GO」がリリースされた時、もともとポケモンが好きだったわけではない人々も巻き込んで一時的に大流行し、「ながら運転」による事故を誘発するなどの問題もあって、ちょっとした社会現象になりました。スマホを持ってあちこち動き回る必要があるので、子供よりもむしろ大人が熱中していたのが印象的でした。

当時、とある国内のビジネススクールの講演動画を観ていたら、ビジネスマンの間で有名な所謂「インフルエンサー」の一人が聴衆に向かって、「ポケモンGOやってますか?」と問いかけていました。するとプレイしている人が案外少数だったので、そのインフルエンサーは苦笑いを浮かべながら、「ちょっとみなさん、今ポケモンGOやってないって、ヤバいですよ?」と聴衆の流行感度の低さに呆れ、危機感を持つべきだと警告していました。

これを聞いた時、私は「うっせえわ」と叫びたくなった、というよりも反吐が出そうになりましたね。

歳を取ってくると、仕事をする上である程度世間の流行を追う必要があることは身にしみて分かります。しかし、さらに歳を取って死ぬ前に人生を振り返って、「あの時、流行に遅れずポケモンGOをプレイしておいてよかった」などと思うはずはないわけで、それが凡俗でくだらない努力であることを併せて語るのでない限り、流行になど乗らないほうがよいと私は思います。

さて歌詞に戻ると、これはまさに今どきの若者らしいと思うのですが、この歌の主人公は年長者との宴会が苦痛で仕方がないようです。

「クソだりぃな
 酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい
 皆がつまみ易いように串外しなさい
 会計や注文は先陣を切る
 不文律最低限のマナーです」

私自身は、焼き鳥は串のまま食べる派で、形式ばった乾杯が嫌いで、料理を平等に取り分けるのはせせこましいように思えて、注文がきっちり仕切られ過ぎているのも無粋だと感じるので、世間的に「よいマナー」とされるものをあまり守っていないほうです(なお焼き鳥についてはそもそも、串のまま食べてほしいという職人も多いらしく、ちょっとした論争があるようですが)。

ただ、人間の上下関係や会食のマナーというものは、「ポケモンGO」などに比べれば遥かに高い普遍性を持った道徳ではあるので、それを面倒臭いと言う若者に迎合して「そうだよね」と肯定するつもりはありません。私自身は逸脱してしまうことも多いですが、古臭い作法というのは、対人関係を安定させる上で有用であることも多いし、繰り返しているうちに血肉化してきてそれ無しでは気持ち悪くなってくるものでもあります。

ところで、上司のグラスにビールを注ぐのは大して労力の要る作業ではないと思うのですが、若い人がそれを嫌がるのは何故なのでしょうか。これはあくまで一つの想像なのですが、ひょっとすると、宴会経験が浅く人のグラスに酒を注ぐ習慣が身に付いていなかった頃に、「お前はそんなこともできないのか」と叱られた経験があって、それ以来嫌になったというパターンは多いのではないでしょうか。だとすればそれは、横柄な上司や先輩にも問題があると同時に、本人が「叱られ慣れていなかった」が故に生じた捻じれのようにも思えます。

歌詞を読み返すと、「ちっちゃな頃から優等生」で「私模範人間」と言っているので、この主人公は表面的にはお行儀よく生きてきたのでしょう。作者が女性であることも関係していそうです。しかし、行儀よく生きていたら、叱られる経験を積めませんよね。そしてそのまま社会に放り出されて、いきなり偉そうな上司から叱責され人前で恥をかかされるのは、たしかに堪えると思います。
(なお私の観察範囲では、褒められっぱなしの人生を歩んできた人だけでなく、理不尽に叱責され続けた経験がある人も「叱られ耐性」を失ってしまうということを、付け加えておきます。)

先ほど触れた原田曜平氏の『さとり世代』には、「盗んだバイクで走り出さない若者たち」という副題が付いています。もちろんこれは尾崎豊の「15の夜」の歌詞をもじったフレーズですが、尾崎が活躍した80年代はもちろん、私が中高生だった90年代にも、要するに若者たちは今に比べて遥かに行儀が悪かったのです。そして行儀が悪かった分、ある程度は叱られたり対立したりすることに慣れていて、それを楽しんでいるようなところすらありました。

これは逆説的なのですが、若者たちが「上司や先輩や教師から礼儀作法をうるさく言われて面倒だ」と感じている一方で、その上司や先輩の中には、「最近の若い奴らは優等生ばかりでつまらない」と思っている人も多いのです。「昔は俺も悪かった」などと自慢気に武勇伝を語りがたる大人は格好悪いですが、その過程で獲得した心の各種「耐性」に有用なものが多いのも確かで、それが身についた方が人生楽しめるのにねと言いたい大人は多いはずです。

マナーを喧しく言うおじさんたちというのは、必ずしも潔癖で窮屈な世界を生きているわけではありません。それどころか、実は本人たちも、厳格にマナーを守っているわけでは全くないのです。他人にはうるさく言いながら、自分がマナーを踏み外すことも頻繁にあって、そういう時はしっかり他人から咎められる。そして「それが繰り返される人生で構わない」と思って生きているところが、今の若者と決定的に違うわけです。

少々のトラブルは織り込んでおくというおじさん世代の生き方と、優しく行儀の良い若者世代の生き方と、どちらが優れているかを決めるのは難しい。ただ、社会を生きていれば腹の立つ出来事は不可避的に起きるもので、ある程度の図太さを身につけたほうが楽に生きられることは確かでしょう。その意味で、私自身はあくまでおじさん世代の流儀を擁護したいのですが、読者の皆さんはどう思われるでしょうか。

 

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コメント

  1. ガム太郎 より:

    ギザギザハートの子守唄は大人への理解を求めている所もありますし、
    15の夜は大人を批判しながらも、どこか後ろめたさも感じられました。

    一方でうっせえわは、100%自分は正しい、相手は100%間違ってるとしか読み解けないので……あまりにも品性がないというか。正直恐怖すら感じます。
    世代間対立がそれだけ酷くなっているという事の現れかも知れません。

  2. 40代のおっさんです より:

    私はこの歌詞に対して、今の若者へのエールも込めた作者の温かい応援歌であると感じています。

    今の若者には「摩擦による成長」も「それにより獲得される心の耐性」も「焼き直しのメロディ」であり、「何回も聞かされるメモリー」なんでしょう。

    「あなたたちのくだらない老婆心より私たちはよっぽど真剣に自分のことを考えてるんだから放っておいてくれないかな。」
    という若者の言葉を代表して歌にしたのだと思います。

    だからこそ「私」は「天才」で「頭の出来が違う」のでしょう。
    作者から若者への「あなたはそのままでいいのだ」というメッセージだと思います。

    この歌はとても暖かい優しい歌です。
    大人たちが軽い言葉で若者に突きつける「お前たちはまだ未熟で、私たちがしっかり成長させてあげる」というナイフから守るための歌だと思っています。

    そして、この歌はとても強く激しい歌です。
    そして多分こんな私の浅い解釈も、作者にしてみれば「うっせえな」といわれるものなんでしょう。

    ここまで丁寧に作られた歌を久しぶりに聞いた気がします。

  3. 20代後半の若者(男性) より:

    私もこういうおじさんに「うっせえわ」と思うことは多いですが、歌詞の内容自体は若者の気概というよりはどこか女々しさがずっとベース音にあるような気がし、あまり共感できませんでした。どこかの居酒屋でずっと愚痴を言って、その居酒屋に居る時間さえ楽しめていないかのような女々しさです(この女々しさは即女性という意味ではないので悪しからず)。
    何故単なる愚痴のように聞こえてしまうのかと考えましたが、「うっせえわ」の感情が、それによって自分の生き方がどうなるという風でもなく、単なるおじさん世代への「反感」以上の価値を持っていないからだと思いました。自分が天才でおじさんがうざいなのであれば無視すれば良いだけのところが、おじさんたちから理解されることを期待してしまっています。「あなたじゃわからないかもね」と言っているのが、非常に気になりました。
    ただ、何故無視できないのかと言えば、やはりそれは「叱られ慣れ」していないからということになっちゃうのでしょうか。それともこの人が、人間は真には相互理解などできず本来的には孤独なものだ、というところから人生を始めていないからでしょうか。
    孤独から始めるというだけで終始孤独に終わるということではありません。ちゃんと孤独から始めれば、いちいち絡んでくるおじさんも「あ、すんませーん。今後気つけます」くらいの寛大さで済まされないでしょうか?これは「本来孤独なところ絡んで来てくれてありがとう!」という安易な意味ではありません。孤独を確保さえすればそれ以上には誰からも精神も侵されないということです。

    • 川端 祐一郎 より:

      女々しいという感想は同感です。
      それと、「あなたじゃわからないかもね」という割に、おっさんからみると正直、既視感の範囲を出るものではないんですよね。
      自意識との格闘を終えた(つもりになっている)おっさん世代が、それとまさに闘わねばならない若者世代を上から目線で論評するのは不公平なので、言いにくいのですが。
      原因についての「叱られ慣れていないから」というのは、いろいろ考えられる仮説の一つについて述べてみた程度ですが、ご指摘のような面もありそうですね。

      • 髙木四郎 より:

        なんだか、この稿、「バズってる」みたいですね。

        昨今の若者が「叱られ慣れ」してない、について、おじさん(小生のこと)は、最近思うことあるので、敢て言挙げしてみます。

        これは若者(「20代後半の若者(男性)」さんもそうかしら?)を腫物のように扱っていた我々おじさんにも責任があるものと思います。

        小生達は、本来、スパルタとは言わないまでも、ビシバシ鍛えなきゃいけなかったのに、「ええわ、ええわ」と、自分たちが被った酷い仕打ちを、若者たちに継がせてはいけないのだと考えて、気付いたら、「あれ?」と、「これじゃない…」と、困惑しているおじさん達です。

        やっぱり、嫌というほど嫌われてでも、若者の両頬を張ってでも、鍛え上げなきゃ(嘗て自分達がそうされたように)いけなかったのかしら、と、おじさん達は、結構悩んでいるのです。

        恐らくではありますが、転換点は、「ゆとり教育」です。「ゆとり教育」の本当のメッセージは、教科過程を簡略化することではなくて、「個性が大事、個人が大事、だから、君たちは、一切頑張らなくてもいいんだ」という、間違ったイデオロギーの流布です。まぁ、はっきり言いますが、日本社会への、滅びのメッセージです。

        小生は、当時とある官庁に勤めていて、この「ゆとり教育」には、絶対に反対の論陣を張りました。「子供たちの「教育を受ける権利」を奪っている」と。

        けど、「ゆとり教育」は実施され、あまつさえ、「脱ゆとり教育」となった今でさえ、その根幹的なメッセージである、「個性が大事、個人が何よりも大事、君達は、頑張る必要がない」というは、何一つ変っていません。日本社会を繋いでゆく、というメッセージは、文字通り滅却されています。

        だったらね、おじさんが、社会の継続を願って、若者を叱るという行為そのものが、今の若者に受け入れられる訳がないじゃないですか。そういうことを、学校教育から何から、まず否定されるよう、最初から教わっている訳ですから。

        でもね、だから、小生は、もう、嫌われても、今後の日本社会の健全な継続の方が大事だから、若者(に限らないんですが)に、苦いことを言い続ける路線に変えました。「うっせぇわ」と言われる方が花だと。「うっせぇわ」で済むほど、世の中甘くないと。

        そういう覚悟がなくて、若者に「いい顔」をしようとするおじさんの腹の据わらなさこそが、今は問題かなぁと、思っています。

        おい!今こそ、この「うっせぇ」おじさんに対し、若者よ、もの申してみい。横綱相撲というものを、見せてやるわ。(笑)

        • 髙木四郎 より:

          おーい、誰か、食って掛かる奴もいねえのか!詰まんねぇな。

          • 髙木四郎 より:

            暫らく待ってみましたが、やっぱり突っ掛ってくる若人、いませんでしたね。おじさん、哀しい。

            『うっせぇわ』が、音楽性に優れているのは認めます。なかなかいいですね。でもね、小生は、破壊力を感じないのですよ。

            嘗て、小生が脅威を感じた歌は以下二歌、墓葬や墓参を全否定した『千の風になって』、丸切り共産主義思想としか思えない『世界に一つだけの花』、これらは、明らかに日本社会を狙い打って、共同体を壊そうとした歌です。

            『うっせぇわ』には、前掲二歌のような破壊力がないのです。正直、この程度の歌で、若者が自我のもやもやを解消できるのなら、大いに全開に歌って欲しいなと、生温かい目で見てしまうのです。

            これが、おじさんが、「昨今の若者は、ここまで弱っちまったのか~」と、『うっせぇわ』を聴いて思う理由なのです。

            …と、ここまで馬鹿にされて、やっぱり誰か、突っ掛かってくる若人は、いませんかねぇ。川端さんが、若人を忖度して、何か反論をなさっても良いのですよ。

  4. 20代の若者 より:

    おことばですが、こういう感じでわかった気になるおじさんたちを拒絶する歌だと思います。
    知った口聞いてんじゃねえ、うっせえわ。脳のデキが違うので。

    • 川端 祐一郎 より:

      コメントありがとうございます。若者の気持ちを分かろうとしているというより、少し誇張して言うと、おじさんの価値観の押し付けを試みているのだと思ってください(笑)。若者が押し付けがましいおじさんの話に耳を貸すことなど、殆どないと知った上でのことですが(私も聞かなかったですし)。

  5. 多田乃 等 より:

    動画を見たのですが、個人的に一番意味があると思ったのは、3分15秒あたりからのシーンで、主人公にもレーザーサイトの赤い点が付き、銃口を突きつけられ、そしておそらく最後は撃たれている、という点でした。批判してきた老人達に撃たれるのか、あるいは自分自信がそれまで批判してきた老害と化していて撃たれるという循環なのか。

    威勢よく噛み付いていたはずが、ある時自分もまた誰かに銃口を向けられてハッとする。そこまで込みでようやくこの曲の価値だと思います。川端さんの指摘するとおり、『それが繰り返される人生』という事なのでしょう。

    一つ疑問なのは、若者は若者である限りやはり本来は生意気のはずで、この動画とそれに共感する人達のような、常にどこかで「うっせえ」の感覚を抱えているはずです。そんな彼らが「優等生」ばかりになったのだとしたら、『横柄な上司や先輩にも問題がある』と川端さんが指摘されるように、若者の若者らしい反抗心がへし折られるきっかけがあったはずなのです。

    可能性として、おじさん側が『「最近の若い奴らは優等生ばかりでつまらない」と思っている』のであれば、(若者に「叱られ耐性」が無いのと同様に)おじさん側にも「噛みつかれ耐性」が無い、という現象でもありえるのでは、と思えてきます。

    つまり例えば、この動画の主人公ように実際に撃たれる側になるまでよもや自分がその立場になるとは思いもよらず、現実に撃たれて噛みつかれてハッとなり、その防衛的反射で若者の「うっせえごころ」をへし折った、のかもしれません。(卵が先か鶏が先か、という議論になるかもしれませんが。)

    そういう意味で、件の曲は若者の心を代弁しているようでいて、一方でおじさん達の現実こそ皮肉っているのかも、という解釈もありうる気がします。

    これはあらゆる事象で見られ、例えば言論においても同様で、これまで舌鋒鋭く誰しもが唸るような議論の展開をして来た人物が、ある時を境に撃たれる側になり、その発言が随分と混迷している様をしばしば見かけたりもしますね。

    そしてもう一つ、「うっせえ」と叫ぶ彼女が最後は射殺されるように、随分安易に共感してしまうのは思慮も激情も足りなく思えてしまいます。その自身の反抗心は、社会から「若者らしさ」なんてラベリングされ、適切に、既製品のように、社会的に処理されてしまう事への言いようのない違和感は抱かないんだろうか、と疑問です。安易にどこかの誰かの「うっせえごころ」に共感して依存してしまっていいのだろうか?と。

    そしてこの曲では最後に、そんな共感した人達をまとめて射殺しているわけです。おじさんには皮肉を、若者には戒めを。私にはそんな様に見えました。

    …と、おじさんには貫禄が足りなく、若者はすでに過ぎた私が、若者にもおじさんにも等しく噛み付いてみます。

    • 多田乃 等 より:

      コピペした際に大量に妙なスペースが入ってしまったようです。申し訳ありません。

  6. 熱く激しく時にクールに全力で生きよう より:

    例え若者が歳上に対し例えうるさいと思われてたとしても、一定の秩序や伝統は守らねばならない為に、歳上に対し失礼な若者がいたとしたなら性根を叩き直します。その役目が本来歳上にはあると思います。歳上は歳下に対し往々にして友達ではありません。また大人は礼儀や常識を教えるカミナリ親父になるべきだと考えます。

    大人は大人で世論など気にするな、と言いたいですね。

    紹介された歌を聴いてみたのですが、一言で感想を言うならば「若者の甘え、不平不満、ストレス解消の言葉の羅列」にしか聞こえず、尾崎豊みたいに「魂を揺さぶられる」とか「哲学がある」とは全く感じることはありませんでした。

    この歌には死と隣り合わせのギリギリ感、疾走感、自由さ、焦り、独自性などを全く感じません。ただの幼稚な愚痴ばかりでヌルいです。ヌル過ぎます。尾崎豊の歌の様に30年後も歌い続けられる歌なのか?といったらそれは無いと思います。

    自分は凡そ自分が15歳の時に尾崎豊が15の夜をリリースした時代に生きた者ですが、あの頃も競争社会で、同世代は人数が多くエリートになる人間は決まっていた様に思います。その道から外れた者らはそれぞれ進むべき道を探していたと思いますが、そんな時に尾崎豊らの歌がいつも、おりこうさんにもそうでない者にも寄り添ってくれたのです。

    薄っぺらい「不平不満」だけが独り歩きする時代になったのかと改めて思いました。

    しかし今の若者は、魂を揺さぶるほどの危険性や理不尽さや暴力やエロスに触れる機会が日本社会の日常では少なくて、自分が若者だった頃より何も無い灰色がかった透明な世の中に生きていると思います。
    経済状況を見ても「好きなことをやる」「ハメを外してみる」という選択肢は中々主体的には出来ない時代で、「失敗出来ない」という思いから、周りにそういったはちゃめちゃな事例を生で目にすることが無い為に、必然的に自分の中に不満やストレスを溜め込みながらも、周りや時代に合わせて小さく生きていくしかないだろうと思ってるのではないか?と思う次第です。

    自分の時代は失敗してもいいや、俺は俺の道を男らしく主体的に生きて行くんだ、尾崎豊が教えてくれたんだ、エリートがナンボのもんじゃい、との思いが少なからずありました。しかしながら歳上と接する時は敬語であり、飲みに行けば会計は歳上が払うのでお酌する位は当たり前だと思っていました。

    しかし今の時代、皆が貧乏になった挙げ句にがんじがらめの時代ですと、若者や子供の思考や感性が拡がることはないのではないか?と思います。精々空気を読みリスクを取らずに生きて行くことを学ぶくらいでしょうか。飲みたくないなら行かなければいいだけですが、恐らく断る根性もないわけでしょ。後から歌にするくらいしか術が無い。

    中高年の方も貧乏になり、若手を連れて気軽に飲みに行く時代でもありませんから、昔ながらの流儀を教える場も少なくなったのではないでしょうか。この歳になるとと言いますか、昔から一緒に飲みに行って歳下にああせいこうせい、なんて言いません。たまに気が利く歳下がいたならば感心したくらいです。

    悟り世代の誕生については、先に社会に出た者らの責任であるという意味で申し訳なく、またこの様な現実が横たわるならば必然だろうなと思ってます。

    悟り世代は親の背中を見ながら育ち、自身を取り巻く社会情勢を感じると、自身が何処か冷めたニヒリズムに陥るしかありませんから。
    よってこの歌が流行るというのは、悟り世代の誕生は日本社会の退化でもあると私は思うのですが、かと言って若者に限らず誰かが道を少し踏み外そうものなら一斉に叩かれる時代ですから、人々は萎縮しこの先も自由や表現方法は狭まり、世の中から受ける刺激は少なくなり、のっぺりとした日常がそこにあるだけだと思われます。

    コンテンツが無い故に社会の中の表現方法が深みも拡がりもなく、尾崎豊の時代に青春時代を過ごした自分からすると、今の社会下の遊びにしろ歌にしろダンスにしろ、殆ど国民の退化にしか映りません。幼稚園生がお遊戯会してるコンテンツを今の若者が真似しても、「はあ?お前らその程度?全くかっこよくないね。駄菓子かアイス買ってあげるから、それ食べて早くお家に帰ってママのオッパイでも吸っときなさい」と失礼ながらそれしか思わない自分がいたりします。

    この事は繰り返しにもなるのですが、私らのせいでもあるのですが、その結果について今の若者の文化に共感することもなければ、若者に喧嘩で負ける気も何故か同情する気もしません。勿論、だらしのない老人達にも。

    若者にはもっと自由に思いのままやっていい、ケツは俺らが持ってやる、と個人的には思うのですが。社会的全体にはその様な男気も愛も無いように思います。勿論、若者に金が無いってのがありますが、自分らが若かった時も金はありませんでした。金は無かったのですが、無理なローンを組んだり、友人同士で融通し合って来ました。

    そして同時に若者に関しては思うことは、もう少し悩んで悩んで深みのある尖ったヤツ出て来いや!少々喧嘩したって、若い内に他人を傷付けたって反省すればいいと思うのです。好きなことやれや!と思います。別に若者に尖った者が出て来なくてもいいのですが、それならそれで、その程度の伸びしろしかない若手らに、私は死ぬまで従ったり共感したりする気はサラサラ無いってだけですかね。
    退化した今の文化や思考や上っ面だけの綺麗事や社会に心を奪われることはありません。

    今でも心を奪われるのは20代だった尾崎豊の歌ですから。

    今声を大にして若者に言いたいのは「少しくらいの礼儀さえ持っていればいい、もっと自由にやれ!何をやっても俺らが責任持って叱ってやる!が何も君から俺らは奪いはしない!人や社会の目など若い内から気にすんな!」と大人が言っておおらかな社会にすればもっといい歌が社会に生まれると思います。

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