今回は『表現者クライテリオン』バックナンバーの2020年1月号から、こちらを二編に分けて公開します。
白川俊介先生の連載(第三回目):ナショナリズム再考
連載タイトル:母語環境の豊かさと善き生の構想の探求─コスモポリタニズム批判㊀
以下内容です。
かつて、アイザィア・バーリンは次のように述べて「コスモポリタニズム/世界市民主義」(cosmopolitanism)を批判した。
「所与の共同体に属し、共通の言語・記憶・習慣・伝統・感情などの解き放ちがたい、また目に見えない絆でその成員と結ばれることは、飲食・安全・生殖と同様に、人間が基本的に必要とするものである」(「反啓蒙主義」)。
バーリンのこの言葉に私は大変共感する。それゆえ私は「コスモポリタニズム」の理念にいささか懐疑的である。
より正確にいえば、コスモポリタニズムの理念そのものは崇高なものだとは思うけれども、そうした理念を政治制度に直接反映させることは望ましくないように思うのである。
その理由の一つは、「コスモポリタニズム」がその理念のなかに、移動の自由を大いに含むからである。
コスモポリタニズムによれば、各人はあくまで人間あるいは個人なのであり、あらゆる負荷を負っていないと想定される。そうした見方からすれば、理念的には、人々は自分が帰属する社会や共同体から拘束されず、そこから自由に抜け出し、別の場所に自由に移動できるべきだということになる。
ゆえに、既存の国民国家の境界線もできるかぎり取り払われ、人々は「世界市民」として、地球という空間のなかで混ざりあって暮らすほうが望ましい。コスモポリタンは概してそのように考えるのである。
しかしながら、このように人々が所与の共同体の境界線に拘束されず、移動の自由を享受しつつ生を営むことが規範的に望ましいとは私にはどうしても思えない。
ある意味でEUとは、そうした理想社会を実現しようとする場であるように思うが、昨今EUが諸種の問題を抱えているということは論を俟たないだろう。
そうした問題の根本には、いくら境界線を取り払ったところで、人は抽象的な個人であるというよりは、自分が生まれ落ちた共同体や社会の属性をかなりの程度帯びた存在なのだという抜きがたい事実が横たわっているように思われる。
人間にとって抜きがたい属性の一つは言語(母語)であろう。
「バベルの塔」の話を引き合いに出すまでもなく、人間は言語によって分断されている。それは人間の特質であるといってもよいかもしれない。
言語はアイデンティティの核を形成する一つであり、また、母語とそれ以外の第二言語をほぼ同等に扱うことができる人はそうはいないだろう。
コスモポリタンからすれば、このような分断は乗り越えられるべきだし、それは理性によって可能なのかもしれない。けれども、それが乗り越えられるべき分断なのかどうか、私には疑問である。本稿ではこの点について、少し論じてみたい。
私がこういうことについて改めて考えたのは、先日、短い期間ではあったが、ドイツ(デュッセルドルフなどライン川近郊のいくつかの都市)に滞在する機会があったからである。
ご存知の通り、デュッセルドルフはドイツ有数の商業の中心地であり、国際都市である。ゆえに、私は当初、大して身構えずに、イギリス国内を移動するのとさして変わらない感覚でいたのである。
だが、実際に行ってみて、「思いのほか英語が通じない」ことに少々驚いた。
空港や駅といった公共の場における表記はほぼドイツ語であり、英語の表記は予想以上に少なかった。また、駅の売店の店員は英語を話せなかったし、数回利用したタクシーの運転手にも英語はほとんど通じなかった。昼食に行ったガイドブックにも載っているような有名な老舗レストランでさえ、(私が当たったウェイターがたまたまそうであっただけなのかもしれないが)ウェイターは終始ドイツ語であり、こちらの英語はほとんど理解できないようであった。ホテルにおいても、フロントの人はともかく、ルームキーパーの人々は英語がわからないようであった(彼らは往々にして有期の移民労働者である場合が多いので致し方ない面はあるのだが)。
ドイツに長年住んでいる日本人の方と話をする機会もあったが、その方もドイツではあまり英語が通じないという認識を持っているようであった。若年層はある程度英語ができるそうだが、年配になるにつれて、英語がわからない人が増える傾向にあるともおっしゃっていた。
私からすれば、これはとても意外であった。私はドイツにおける英語教育事情には明るくないけれども、私のような日本人が英語を学習するのとは異なり、ヨーロッパの人々にとって、英語を学習するのは、言語的親近性からそれほど難しくはないと聞いていたのもあり、もっと多くの人が第二言語として英語を日常的に比較的簡単に操るものだと思っていたからである。
しかしながら、私が感じたかぎりにおいては、英語を操る人は予想以上に少ないように思われたのである…(続く)
(『表現者クライテリオン』2020年1月号より)
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