『カッサンドラの日記』70
AIの時代/大学の存在意義は何か
橋本由美
MITの経済学者ダロン・アセモグルは、AIの利用によって人類が発展するのではなく、逆に、人類全体の知識のストックを枯渇させる可能性があると警告する。
AI時代において我々が学ぶ意義はどこにあるか?大学の存在意義とは?効率化の波に抗い、人類が退化しないための「知」と「教育」のあり方を問う──。
このところAI関連の話題を聞かない日はない。AIの浸透は既に社会に大きな変化をもたらし始めていて、生産性向上や日常的利用から、人類の知の発展、貧困や疾病の克服といった社会問題の解決、ホワイトカラーの失業問題、米中の開発競争まで、期待と脅威に揺れ動きながらも影響は既に多岐に及んでいる。5月にはメタが社員の大量解雇を発表しただけでなく、パソコン作業を自動化するAIエージェントを開発するために、従業員のパソコンのキーボード操作のデータを収集すると通知したことで、端末監視によるプライバシーの侵害や従業員の搾取が常態化すると抗議運動が起きた。
現実には世の中のすべての「端末」からは、同意に基づかないデータ収集が行われていることを疑う者はいない。20年近く前にアメリカ政府がテック企業から個人情報を収集して国民を監視していることに気がついたエドワード・スノーデンが、2012年にそのすべてを「暴露」して世界に衝撃を与えたが、いまでは、端末にバックドアが埋め込まれているのは周知のことで、テック企業はあらゆる人から絶え間なくデータを収集していると諦めてしまっている人が多い。AIは合法非合法に蓄積された膨大な情報に基づいてユーザーの行動を予測していて、利用するにも利用されるにもAIの存在はもはや社会の前提になっている。
AIが前提条件になるのは、教育も例外ではない。なかでも大学は、教育機関としても研究機関としても根本的な問題を抱えることになる。ChatGPTが公開された当初に話題になったのは、学生がAIを利用してレポートを作成したり、試験問題の予測や模範解答の用意したりすることで、成績評価が公平に行われるかということだった。しかし、あっという間にAIが小説を書いて、文学賞の受賞対象になってしまったのだから、この流れは禁止することで止められるようなものではない。世の中の矛盾や不条理に対して経験不足の若年層がAIに依存するようになると、「現実」の生身の指導や忠告に触れることすらなくなり、経験の観念化空虚化が起こりそうである。大学も社会もデジタル化で「対面」の機会が失われていて、ほとんどがお互いにテキスト上の存在になっているのに、テキストまでAIが作成しているなら、大学は彼らをどう指導するのだろうか。
学生にとっては授業や成績評価だけでなく、その先の問題もある。就職時の企業面接をAIが対応するようになり、AIに選考される時代になった。選考の場があればいいほうで、職種によってはエントリーレベルの仕事がAIに奪われる。実際に、アメリカでは若者の求人や昇進が止まってしまっているという。新規採用枠がなくなる職種が増えれば、エントリー先のない学生は失業手当の対象にもなれず、結果として契約社員やフリーランスの増加によって社会全体の労働単価が抑えられてしまう。日本でも、この先、顕在化する問題だろう。
研究分野ではもっと深刻である。既に、複数の研究データベースで公開されている科学論文から、実在しない参考文献が急増しているという報道を見かけるようになった。研究者が論文の作成をチャットボットに任せれば、AIが生成した偽の文献や間違った引用を気づかぬまま採用するケースが出て来る。捏造された数値や図表や画像を含む引用や参考文献を、多くの研究者が十分に検証せずに用いているらしく、現に広範囲に影響が出ているという。公開された論文が引用を繰り返されることで、いつの間にかそこに記載された誤情報が真実として扱われるようになる。捏造や誤ったデータは、医療や医薬品の製造、資材や機械の強度設計など、人命に関わるケースを招きかねない。
AIを利用した意図的な捏造も可能だが、依存し過ぎて検証が不十分なために見過ごした結果としての誤情報が多いという。権威あるデータベースでは、生成AIの利用の有無や、使用したLLMの名称や使用目的、使用箇所など、いくつかの項目を開示することを著者に求めているというが、自己申告である以上、その正確さは確認が難しい。これを査読で発見するのは、査読者の負担の増加になり、しかも完全に排除できる保証もない。現在確立されている査読システムの信頼性が問われることになる。どこまでが補助的なツールとして認められるのか、申告を研究者の性善説に頼ることができるのか、素人の私でさえ、これだけの不安材料を見つけてしまうのだから、研究者にもデータベースの出版側にも、統一された原則が必要になるだろう。
教育関連の仕事には影響が小さいと言われるが、教育プログラムの一部が自動化されることで影響が出る場合もあるだろう。自動化が可能な教育を行っている教員は淘汰されることになる。大教室での一方通行の講義や一部の外国語学習も見直しが迫られる。
日本の教育はAIのインパクトに対して脆弱である。子供の頃のドリルや〇×式解答や択一問題は、なんだか単純作業を効率よく処理する訓練みたいで、子供に学ぶ意欲を持たせるようなわくわくする勉強ではなかった。学年が上がって、例えば、高校の現代国語や英語の授業、大学の入試問題を思い出してみよう。教科書に掲載された文章を読み、単語や語彙を正確に理解し、要約をして、著者の意図や感情を推し測るという授業だったと思う。試験の設問の文章を〇字以内で要約せよ、とか、著者の考えに一致する項目を下記から選べ、といった「著者よりも出題者の意図を汲む」勉強を繰り返しやらされた覚えがあるだろう。歴史の授業では、教科書を読み講義を聴くことで知識を蓄積する。どの科目も知識を伝達する講義が主流で、試験は生徒や学生の理解を問うものというよりも、まるで調査票の記入(マークシート)をやらされているようである。
長文講読の授業も内容の要約ばかりやらされるから、実際、学生のレポートや企業の報告書にはこのパターンが多い。知識・情報の集積や要約作業はAIの「得意技」であり、数秒で答えてくれる。知識を増やして的確な要約を訓練することが学習だった日本の学生は、AI化社会では不要になる。社会全体が、知識の伝達と習得、情報の理解を中心にしたものになっていて、どこかに正解があって、理解とは正解に近づくことになってしまった。小学校から大学まで、勉強は「処理作業」に近く、学問(勉強)に関心を持てないまま終わってしまう。
AIが社会に浸透することによって影響を受ける層は、新規に参入しようとする若年層だけではない。AIの学習スピードはエリート層の業務も侵食する。いままで貴重だった専門知識が不要になり、要領よく書類をまとめる仕事もなくなる。ベテランのエキスパートたちは、嘗て移民やオフショアリングや自動化に仕事を奪われた労働者たちと同じサイドに転落する。社会の下層がボリュームゾーンになり、上位との格差が拡大する。
いままでの学習がAIの登場で役に立たなくなったり無意味になったりすると、学びの在り方を根本から考え直さなくてはならなくなる。大学で何を学ぶか、大学は学生に何を提供するか、AIの浸透に従って、これから大学自体が直面する問題である。
学部の授業は講義による知識伝達が主流だが、学生が参加するゼミでは何をやっているだろうか。学問分野の違いや、大学・学科・教員などの個性や目的の違いがあって一概には言えないが、私の経験では、総じて文献や原書の講読が多かったと思う。個人的には、文献講読は必須だと思っている。どの分野でも深く読み込むべき文献はある。この経験なしには知的な理解力も批判力も育たない。しかし、ゼミの文献講読でも、どちらかと言うと語彙や文章の解釈や要約が中心だった。文献が古典や外国語だと、語彙の解釈に時間を取られたり、内容の背景を考えて要約したりするだけで力尽きてしまうことがあった。(私の頭が悪いせいもある。)しかし、これではやはりAI時代に対処できない。AIは学生のテキストになるような文献なら、学生より立派な解釈で、たちどころに要約してくれるだろう。
ゼミでやるべきことは「議論」である(…と思っている)。議論のためには、多くの文献を読む必要がある。しかし、全員で同じ箇所を読み、一字一句確かめながら語彙や文章の統一見解を出して共通理解で終わるのでは、答え合わせをしているようなものだ。それこそAIに尋ねれば、その解答に「あ、なるほど」で、一瞬で終わってしまう。
かなり昔の話だが、アメリカやヨーロッパの大学の教員たちとの会話で、学生に課される宿題の多さを知って驚いたものだった。分厚い書籍を何冊も次週の授業までに読まなければならないという。遊ぶ時間もなければ、当然アルバイトなどをする時間もない。宿題を課された学生も大変だが、指導側の教員の体力的負担も相当なものだろうと推測した。
議論に要求されるのは思考力と批判力であって、読むだけでなく、考える力、書く力を養う必要がある。それは自力でやらなくてはならない。大学のゼミの場で議論を成立させるために、文献講読は最低限の「準備作業」になる。準備作業をAIに頼ったら、何も身につかない。AI時代の大学のゼミとは、それだけ「真剣勝負」の場になる(はずな)のだ。
MITの経済学者ダロン・アセモグルは、この2月に発表した論文で、AIに頼りすぎると人類は劣化し、人類全体の知識崩壊を起こすと警告している。AIの利用によって人類が発展するのではなく、逆に、AIに頼ることで人類全体の知識のストックを枯渇させる可能性があるという。
AI時代のコミュニティーレベルの知識は個人レベルの知識と無関係ではない。個人の学びの努力は、本人のためになるだけでなく、表現されたもの(論文や会話や討論やネット上の発言など)を通して、社会の「共通知識」のストックを増やすことになる。アセモグルはこれを「学習の外部性(a learning externality)」と言い、個人の努力が社会全体の利益にもなっているという。彼は、意思決定の質を上げるためには、この共通知識(community-level general knowledge)と個人特有の文脈的知識(context-specific knowledge)がどちらも必要で、両者は補完的関係にあると述べている。
しかし、AIエージェントに頼ることに慣れ、意思決定を代行させるのが当たり前になってしまうと、人間は自ら学習したり調べたり考えたりしなくなる。残念ながら「脳」というのは常に「ラク」をしようとするように出来ている。エネルギー効率を最適化する生物の進化によるもので、より小さなエネルギー使用量で同等の結果を得る方法があるのなら、それを選択することは、脳にとって「善」なのである。
人間が自分で思考しなくなり、AIエージェントの「お勧め」に従って意思決定するだけになると、試行錯誤の段階での討論や意見交換などの「表現(exhibition)」もなくなり、社会に何の知的働きかけもしなくなる。AIとの対話だけで完結してしまえば、経験や意見の交換によって伝わるはずの新しい知識が社会に流れ込まなくなり、社会の「共通知識」が増えず、いずれ枯渇してしまう。社会の知識のストックが枯渇すれば、AIの学習に反映させることが出来なくなる。「みんなが頼っているAIの学習源」が枯渇するということだ。
豊富な知のストックは、限界収益(marginal return)を上げるための人間の努力を補完するが、「人間由来の知識」が枯渇すると、社会は「共通知識がゼロに収束する定常状態」になるというのがアセモグルの警告である。AIの利用は短期的には意思決定の質が上がり、現在はその成果に群がっているが、このような受け身の態勢では、長期的には人間の思考の努力を減退させて新しい知識を生み出さなくなり、人類全体の生態系に関わるような知識崩壊を招く危険があるという。
(人間が馬鹿になると、AIが馬鹿になる。人間もAIも馬鹿になると、世界が止まる。……無意味な行為ではないかと、ときに虚しさに襲われる「言論活動」も、人類の「共通知識のストック」を増やす上で必要な「表現者」の活動(to exhibit)であるらしい。)
何よりも大切なのは「学ぶ動機(human learning incentive)」を失わないことだと、アセモグルは言う。AIを進化させるためには、AIが学習すべき知のストックを「人間が」作らなくてはならない。AIの御宣託を聞くだけで自分の脳を使わないというのは、音楽を聴いてもピアノが弾けるようにはならず、大リーグのゲームを観戦してもホームランを打てないのと同じである。そのうち、聴衆や観戦者だけになって、演奏者も選手もいなくなる。
身体も脳も使わなければ退化する。動かなければ筋力が落ち、電卓を使うようになって暗算ができなくなり、漢字変換機能によって漢字を読めても書けなくなった。AIによって、ウェブ検索の利用が目に見えて減っているという。検索結果を吟味し選択するという労力さえ惜しむようになったのである。「動機」を失ったら、人間は何も行動しなくなる。ヒトという種の退化が始まる。AIと共存するためには、ヒトが知的好奇心を失わずに、学び続けなくてはならない。
だとしたら、大学は「学ぶ動機」を提示し続けなくてはならない。日本の教育は、明治時代から知識を伝達することに重点が置かれた。欧米に追い付き、国家の近代化のために、中等教育でも高等教育でも効率よく知識を伝えて習得させることが学校教育の使命だった。その遺伝体質はいまも抜けきらず、相変わらず知識の獲得と要約作成に励んでいる。何もないところからは何も生み出さないから、基礎知識を習得する必要はあり、従来の教育を全否定はしない。しかし、大学においては、効率や利益や効用という価値基準を離れて、社会の深層領域で存在価値を問い直さなければならない。
解決策など、私にはわからない。けれども、ひとつだけ気になることを挙げてみたい。それは、現代の日本人が「形而上学的な思索をしない」ということである。多忙な日々を送りコスパ・タイパを追求する現代人にとって、深い思索は時間の無駄に思えるが、形而上学的思索こそ、AIにとっての「学習源」である。その思索の場が大学ではないだろうか。
競争の激化している世界経済や技術開発には高度な専門知識が要求される。あまりに高度で難解になり過ぎてしまい、研究者はますます先鋭化した限定的分野に専念しなくてはならない。その実情がわからないわけではないが、研究の担い手の人間が劣化したらおしまいである。高度な専門分野を極める研究ほど、担い手になる学生にリベラルアーツを義務付けるべきではないだろうか。グローバリズムの余波で専門教育の効率化が推進され、大学の一般教養課程が削られてしまった。このままでは人類の知のループを狭め、哲学的思考からどんどん遠ざかる。
AIに依存しないためにも、議論の場としての大学は以前にも増して重要になる。質の高い教育は少人数でなければ難しく、教員の負担の増加も要求されるようになるだろう。大学経営の採算性を考えれば、国の教育支出にまで話が及ぶ。お金も時間も人材も必要で、一朝一夕でなんとかなる話ではない。財務省財政制度審議会での、四則演算を教えているような私立大学の助成金を見直すべきだという発言によって世の中が騒めいたとき、このページで「履修主義」を考え直すべきだと述べたが(『日記』50)、最近では、私立大学の削減が現実味を帯びて来た。いままでは「大卒」の肩書さえあればなんとかなるという幻想が社会一般にあって、学びの質など問わずにとにかく大学に行きさえすればいいというのが日本社会だった。しかし、少子化とAIの普及で、「18歳入学」「知識習得と要約力」「履修主義」「進学の必要性」など、従来の常識が問い直されている。
大学の意識改革は、卒業生を受け入れる側の社会意識や、大学へ進学するための初等中等教育の在り方にも関係する。大学に課せられた責任は重い。AI時代の大学は、ヒトという種を退化させないための砦であると自覚しなくてはならない。
AI, Human Cognition and Knowledge Collapse / Daron Acemoglu /2026.2.26
https://economics.mit.edu/sites/default/files/2026-02/AI%2C%20Human%20Cognition%20and%20Knowledge%20Collapse%2002-20-26.pdf
(了)
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[論考]森本あんり/会田弘継/中田 考/安藤礼二/白井 聡/ジェイソン・モーガン/柴山桂太
【特集2】さらば、「平成保守」!
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