「辺野古移設」と「抗議活動」にどう対峙するのか──「平和教育」を守るために、私たちが為すべきこととは何か―

藤原昌樹

藤原昌樹

 

「辺野古移設」と「抗議活動」にどう対峙するのか

―「平和教育」を守るために、私たちが為すべきこととは何か―

藤原 昌樹

「辺野古移設」が争点?──2026年沖縄県知事選挙

 玉城デニー沖縄県知事が4月25日に記者会見を開き、今年の9月13日に投開票が行われる沖縄県知事選に向け、三選を目指して立候補することを表明しました。当初、玉城知事は3月28日に出馬表明会見を予定していましたが、辺野古転覆事故を受けて延期していたのです。「普天間飛行場の辺野古移設反対」で結集する政治勢力「オール沖縄」の支援を受けての無所属での出馬となります。

 沖縄県知事選には、県内の経済団体幹部や保守系首長らが擁立した元那覇市副市長の古謝玄太氏が3月23日に出馬を表明しており、現時点では、玉城知事と古謝氏による事実上の一騎打ちとなる見通しとなっています。

 一足先に出馬を表明した古謝氏は、「普天間飛行場の危険性除去の現実的な解決策として、既に工事が進む辺野古移設は容認する」と明言しています。「工事をめぐる県と国との裁判は既に終結した」「辺野古移設が最も早い解決策である」と主張し、玉城県政が辺野古移設を巡って司法判断に対抗した(判決に従わなかった)ことについて「行政機関が法令を守っていないというのはあり得ない話だ」と批判しました。
 移設容認の姿勢を示した古謝氏に対して、玉城知事は「辺野古移設が大きな争点の一つになり得る」との見方を示し、「辺野古『新基地』は基地の永久固定化であり、断固として認められない」と従来からの主張を述べて、あくまでも反対する意向を貫くことを明らかにしています。

 これまでにも何度か拙稿で論じてきましたが、私自身は、辺野古移設について基本的に反対してきました。我が国にとって「独立国に相応しい防衛・安全保障体制の構築」ではなく「対米従属状態の固定化」に繋がってしまうのではないかと懸念していることや日米両政府間の「普天間飛行場の返還条件」に関する認識のズレから「辺野古の代替施設が完成しても普天間飛行場が返還されないのではないか」との疑念を拭えないことが理由です。

 しかしながら、やみくもに辺野古への移設工事に反対し続けるのは、沖縄の将来にとって得策ではないどころか、マイナスにしかなりません。辺野古の埋め立て工事が進捗し、もはやポイント・オブ・ノー・リターンを越えてしまっている状況です。オール・オア・ナッシングの闘争ではなく現実的な条件闘争に切り替える必要があり、そのためには辺野古の代替施設と普天間飛行場について、それぞれゼロベースで再検討し、我が国の防衛力強化の全体構想の中に位置づけ直す作業が必須です。
 現在の活動家たちの運動はそうした現実的な議論をむしろ遠ざけてしまっています。

 今回の辺野古転覆事故をめぐる振る舞いに端的に顕れているように、沖縄の活動家達に共通する特徴は「常識」が欠如し、遵法意識がないということであり、現在、彼らによって辺野古で繰り広げられている非常識な抗議活動は到底容認できるものではありません。

 しかしその一方で、たとえ「辺野古移設工事」を「止めることができない」「止めることに意味がない」のだとしても、沖縄から何ら異を唱えることがなければ、我が国の「対米従属状態」を良しとして、防衛・安全保障における負担を沖縄に集中させることで(政府をも含めて)多くの国民が思考停止している現状を許容することに繋がってしまう懸念があることもまた紛れもない事実です。

 辺野古の代替施設と普天間飛行場の位置づけを含む我が国の防衛力強化の全体構想について再考を求めるという意味において、たとえ変えられないのだとしても、現在進められている辺野古移設に対する異議や反対の声を上げる示威運動が有する意義そのものまで否定することはできないのではないでしょうか。

 玉城知事が「辺野古移設の是非を問う」「辺野古移設が大きな争点の一つになり得る」と主張しているのとは別の意味において、すなわち、「(もはや止めることができないことを前提に)辺野古移設を推し進める政府、辺野古で繰り広げられている抗議活動に対して、どのようなスタンスで対峙するのか」ということは、今回の沖縄県知事選における一つの争点になり得るものと思えます。

「平和教育」と「抗議活動」について玉城知事は何を語ったのか──出馬会見と定例会見

 前々回の記事で、玉城知事はこの度の辺野古の事故や平和学習について、自分の支持層である活動家たちに甘いのではないかと苦言を呈しました。

 玉城知事は、その後の出馬会見(4月25日)及び定例会見(4月30日)でも「沖縄の平和教育」や「辺野古の抗議活動」について語っています。

 玉城知事が出馬会見で、沖縄の「平和教育」について「『偏向的な平和教育』という言葉が独り歩きしている」との懸念を示した上で「沖縄の過去の戦争を体験した方々が残された証言、事実、未来を託された世代が引き続き平和についてしっかりと学び、発信していくことは、沖縄にとって大きな役割がある」と語っていますが、「沖縄戦と平和を学び、発信していくことの大切さ」については、恐らく沖縄県民の多くが共感するところです。
 また、「戦争体験者の方々の事実に基づく証言と沖縄戦を研究する方々の実績(を学ぶこと)こそが、沖縄で平和について考えてもらう真の教育である」と述べたことについては、「平和教育」の概念をあまりにも狭く捉えているきらいはあるものの、間違っているとまで言えるものではありません。

 しかし残念ながら、現状では、沖縄の「平和教育」(の一部)が偏狭な思想を持った教育者や抗議活動家に利用されてしまっており、武石知華さんのご遺族が「辺野古ボート転覆事故遺族メモ」で提示してくれた「平和学習」本来の「あるべき姿」からかけ離れてしまっている事実は否定すべくもありません。

基地反対派の主張を披瀝する場と化した「平和学習」──同志社国際高校「沖縄研修旅行」

 例えば、ご遺族自身がこれまでの同志社国際高校の沖縄研修旅行について詳細に検証し、研修旅行の「辺野古コース」が「過去の実績を見てみても、一貫して基地反対派の意見のみを聞くコース設定となっており、『多角的な視点』を掲げつつ、実態は教育の中立性から乖離している」と指摘しています。
 具体的には、2015年の研修旅行で行われた磯野直氏(『沖縄タイムス』記者)の講話における質疑応答を例に挙げ、偏向した「平和学習」の実態を明らかにしています(同志社国際高等学校「平和を作り出す人」第33号)。

生徒のひとりが質問した。

 

生徒 「当時、基地で働く人たちがベトナム戦争に反対するために武器を壊したり物資を抜いたりしていたことも、今の非合法な基地反対活動も、少なくとも合法ではないですよね。」

磯野氏「そうしなければ気が済まなかった人たちがいる。その人たちを非合法だと責められるかどうか」

生徒 「今の政府のやり方は間違っていると思って非合法な措置をとってもいいということか?」

磯野氏「どういうことを非合法というのか?」

生徒 「当時の法律が正しいかどうかは別として、法律で禁じられていることをすること。おかしいと思ったら違法行為でも良いのか。」

磯野氏「物資を壊したこと、それは間違っていると思う?」

生徒 「少なくとも、その当時の法律がある限りは。」

磯野氏「意思表示をすることが大事なこと。バックボーンがある人たちを違法だと断ずることはなぜできないか説明してきたつもりだが」

生徒 「今も違法行為で良心を果たすことは正しいのか」

 

ここで同席していた教師が「水掛け論になる」として議論を打ち切った。
 「今も昔も」という問いに対して、磯野氏は「今は違う」と明確に否定せず、先生は、法と良心の関係というテーマに辿り着いた生徒の議論を打ち切った。

 さらに次の生徒は、自身が辺野古移設にどちらかと言えば賛成とする立場から丁寧に論拠を述べた。キャンプシュワブ内への建設であること、嘉手納以南の基地整理との関係、辺野古区内の民意について、具体的な数字を挙げ、「参考までに反対する理由をお聞かせくださいますか?」と質問した。
 磯野氏は、生徒が示した具体的な数字を「信憑性がわからない」と退けた上で、「普天間は国際法違反で接収された民間地だから無条件返還されるべきであり、代替地を求めること自体が違法だ」とした。

 ご遺族が指摘しているように、同志社国際高校の生徒達が、沖縄における過去の「非合法な基地反対運動」や現在の「辺野古移設に対する抗議活動」の事例を学ぶことを通して、「法と良心の葛藤」という哲学的な問題にまで踏み込もうとしていたにもかかわらず、その手前で議論が打ち切られてしまっていることが残念でなりません。

 ご遺族は「自分たちの側の違法行為は『良心があるから断じられない』。相手側の論拠は『信憑性がわからない』と言いながら、自らの主張は『国際法で断じる』。同じ口から、同じ場で出た言葉だ」と記して「自分たちの違法は良心で擁護、相手の論拠は切り捨て」というダブルスタンダードを指摘し、このような内容が沖縄研修旅行初日の全体講演として生徒たちに提供され、学校の平和教育冊子に注釈なく収録されている点を問題視しています。

 この2015年の研修旅行における磯野直氏の講話についてはSNS上での反響も大きく、「自分達が絶対正しいから何やってもいいんだ、という極めて独善的な考え方を生徒に教えることが平和教育なのだろうか?」などといった批判の声があがっています。

 評論家の篠原章氏は、「平和教育」について「本来、学校が選ぶべきは『教えるか教えないか』ではなく、『複数の立場を、生徒の判断力を信頼してどう提示するか』である」「基地問題には、安全保障上の現実、地政学的環境、経済との関係、抑止力の議論など多面的な論点がある。これらを欠いた『平和学習』は教育ではなく『動員』である」と論じています。

 磯野氏と生徒達のやり取りから読み取れるのは、抗議活動家である(もしくは、少なくとも沖縄の抗議活動に共感している)磯野氏が、沖縄における活動家達の常識から逸脱した抗議活動を肯定し、「平和学習」の場で生徒達を「オルグ」しようとしていたと受けとめられても致し方がない内容を語っていたという事実です。

 知華さんのご遺族が調査し、発信してくれたおかげで、同志社国際高校の「平和学習」の実態が明らかになりつつありますが、「沖縄修学旅行ナビ」に辺野古移設反対の抗議活動を続けてきた男性が「平和学習」のアドバイザーとして登録され、実際に東京や埼玉の私立学校の「平和学習」において、今回の事故で亡くなった「不屈」の船長や「ヘリ基地反対協議会」(以下、「反対協」)の代表らがガイド役や講師を務めていたという事実が報じられていることからも、同志社国際高校の「平和学習」が例外的な事例であったという訳ではなく、「反対協」をはじめとする抗議活動家達が「沖縄の平和学習」に深く関わり、「平和学習」を自分達の主張を生徒達に披瀝する機会として利用してきたものと推察されます。

 ご遺族のレポートでは、質疑応答において理路整然と自らの見解を提示する同志社国際高校の生徒達の聡明さが際立ち、磯野氏が提示した抗議活動家達の違法行為を正当化する「反基地無罪」とも言われるような主張に彼らが感化されることはなかったのだろうと思われますが、沖縄の「平和学習」を体験する数多くの生徒達の中に活動家達の主張に感化されてしまう生徒がいたとしても、なんら不思議なことではありません。

 「平和学習」において、生徒達が「沖縄で抗議活動をする基地反対派の主張や論理」を知ること自体は否定されるべきものではなく、むしろ望ましいことであり、そのために、同志社国際高校の「平和学習」で講話をした磯野氏のように、基地反対派や抗議活動をする側の人物が自らの主張や信念を生徒達に語り聞かせることも一概に否定しなければならないということではありません。
 しかしながら、篠原氏が指摘してくれているように、「平和学習」において重要なのは「生徒の判断力を信頼して複数の立場を提示すること」です。
例えば、「沖縄の基地問題」について学ぶ場合に、基地問題の歴史、我が国を取り巻く国際情勢や安全保障の現実、地政学的環境、抑止力の議論、地域経済との関係など多面的な論点を提示した上で、基地に反対し、抗議する側の主張だけではなく、基地を積極的に歓迎する、もしくは消極的に容認する立場の側の主張、(賛否に関わらず)基地周辺で生活する人々の意見など多様な観点や主張を知る機会を提供するのでなければ、「教育ではなく『動員』である」との誹りを免れないでしょう。

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「平和教育」を守るために、私たちが為すべきこととは何か

 前述したように、玉城知事は出馬会見において、沖縄の「平和教育」について「『偏向的な平和教育』という言葉が独り歩きしている」との懸念を示し、「沖縄の平和教育は決してそういう偏向的なものではない」と強調していました。

 辺野古転覆事故の発生後、『沖縄タイムス』(2026年3月20日)は「平和や基地問題を学ぶ場へのバッシングが広がっている」「SNSでは市民団体の抗議行動や乗船しての視察にも誹謗中傷が飛び交う」などとして「平和学習」で抗議船に生徒たちを乗せることや「反対協」による抗議活動への非難が拡がることへの懸念を示し、日本環境法律家連盟(JELF)も「平和教育や市民運動を攻撃するような誹謗中傷が拡散している」として「冷静で理性的な議論の継続」を求める声明を発表しています。

 SNS上で飛び交う事故に関する言説の中に思い込みやデマが含まれていることは否定できませんが、「辺野古での抗議行動が危険」であり、今回の事故が「高校生を巻き込んで死に至らしめたこと」は紛れもない事実です。また、残念ながら、現状において沖縄の「平和教育」(の一部)が「反対協」をはじめとする抗議活動家達に乗っ取られ、偏向してしまっていることは、もはや「公然の事実」であると言って過言ではありません。

 今回の辺野古転覆事故を契機に、「平和教育」そのものを否定するかのような言説が少なからず拡散してしまっていますが、否定すべきは「平和教育」が偏狭な思想を持った教育者や抗議活動家に利用されてしまっており、基地反対派の主張ばかりが一方的に提示され、それ以外の主張や多面的な論点が提供されることなく、「偏向している」と指摘せざるを得ない現状であり、「平和教育」そのものではありません。

 玉城知事の「県知事には、それ(平和教育)を守っていく責任がある」との言葉に嘘はなく、彼自身が本気でそのように考えていることを疑うものではありませんが、その一方で、玉城知事が「現在の沖縄の『平和教育』が抗議活動家達に利用されている」という「公然の事実」を全く知らないということもまた、あり得ないように思えます。

 玉城知事が、現在の「平和教育」の実態を知った上で「沖縄の平和教育は偏向的なものではない」と強調しているのは、沖縄の「平和教育」を抗議活動に利用し、偏向させているのが、自らの主たる支持母体である「オール沖縄会議」や「反対協」など抗議活動家たちの団体であり、三選を目指す玉城知事が彼らからの支持を失うことを恐れ、忖度しているからではないのかとの疑念を拭うことができません。

 戦後80年以上が経過した現在、沖縄では「沖縄戦の語り部」として活動されてきた方々が鬼籍に入られたとのニュースが相次いでおり、「如何にして沖縄戦の『記憶』を継承するのか」という課題に直面しています。「平和学習」は、沖縄戦(のみならず戦争)の「記憶」の継承における大きな役割を果たすことが期待されているのであり、その期待に応える可能性を有していることは間違いありません。

 「平和教育」の実態を精査することなく、「沖縄の平和教育を守らなければならない」と声高に主張し、抗議活動家達によって歪められてしまった「平和学習」をもひっくるめて、現在の沖縄で行われている「平和教育」全てを擁護することが、本来の「平和教育」を守ることにならないことは火を見るよりも明らかです。

 また、前述したように、(辺野古移設を含めて)政府の政策に対する異議や反対の声を上げる「抗議活動(=示威運動)」が有する意義は否定されるものではありませんが、現在の辺野古で抗議活動をする人たちが求めているのは、実際に「辺野古移設工事を阻止すること」などではなく、抗議活動に参加することによって得られる「生きがい」であり、満足感でしかありません。決して「思想の問題」などではなく、彼らには「沖縄の未来」や「沖縄の子ども達の将来」について真剣に考える真面目さがないのです。

 前回の記事で論じたように、おじぃやおばぁ達の年甲斐もない自己実現や「生きがい」、確固たる「個」がない人たちの「自分探し」のために行われる不真面目な抗議活動など、決して容認できるものではありません。

 沖縄では間もなく「慰霊の日」を迎えますが、沖縄戦で亡くなられた先人達の魂を慰めるためにも、いま私たちが為すべきことは、「沖縄の未来」と「子ども達の将来」のために、「抗議活動(=示威運動)」のあり方を見直すと同時に、本来の「平和教育」の「あるべき姿」を取り戻すために努めることなのではないでしょうか。
 沖縄のリーダーたる県知事には、そのためのリーダーシップを発揮することを期待したいと思います。

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