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【川端祐一郎】思考の緊張感——サッカーはなぜ面白いのか

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

先週の柴山さんのメルマガで、サッカーW杯で日本代表がベルギー代表に敗れた試合の最後の14秒間を詳細に分析した『ロストフの14秒』というテレビ番組が紹介されていました。私も観たのですが、たしかにこれは面白い番組でした。

その後、たまたま柴山さんと話をしていて「なぜサッカーは、組織論や日本人論の題材として面白いのか」が話題になったのですが、これを考えていくと、柴山さんが先週書かれていたのとはまた別の観点で、平成の日本人に欠けていたものが見えてくるような気がしました。

スポーツ教育やスポーツ史の専門家である吉田文久氏が、『フットボールの原点』という著書の中で、サッカーやラグビーの元になった「民俗フットボール」の歴史を紹介されています。民俗フットボールというのはイギリスの伝統的な遊びでありお祭りでもある競技で、町を2つのチームに分け、住民が全員参加でボールを相手のゴールまで運んでいくというものです。(下記の動画がわかりやすいです。)
https://www.youtube.com/watch?v=kmWt8KBqknw

この本の中で吉田氏は、「そもそも点が入らないのがサッカーというスポーツ」であり、それこそがサッカーの面白さの根源だと述べていて、私はなるほどと思いました。サッカーというのは確かに大量の得点が入りにくいスポーツで、「1対0」で決着するような試合も珍しくはない。またフットボールと総称される競技の中でも、ラグビーやアメフトに比べてサッカーのゴールは小さく、1点取るのがとても難しい。

つまり「1点の重み」が大きく、その稀な1点を取るための緊張感がサッカーを面白くしている。もともと民俗フットボールにおいては1点先取した方が勝ちで試合終了だったらしく、だからこそ1点の重みをいかに味わうかという方向でゲームが進化してきた面もあるそうです。

また、吉田氏が出演していたネット番組の「マル激トークオンディマンド」(今はもう観られないようです)で議論になっていたことなのですが、たくさん点が入る競技であれば強いチームが順当に勝つという結果になりやすいのに対し、点が入りにくく「1点の重み」が非常に大きい競技では、「意外な展開」も生じやすくなります。言い換えれば、サッカーというのは強豪チームと言えども大きな不確実性を前に戦わねばならず、「運」や「偶然」に左右される部分も比較的大きいスポーツだということです。

とはいえ当たり前のことですが、運を味方につけるのにも一定の実力や準備が必要で、だから選手たちは練習に励み、試合中もコミュニケーションを綿密に取りながら様々な作戦を試している。十分な準備のできているチームこそが運をものにするという意味で、その勝利には一種の必然性もあるわけです。しかしどれだけの準備をし、総合的には敵チームを凌駕しているのだとしても、ちょっとした不測の事態で敗北に至ることも少なくない……。

偶然性と必然性の間に立ってどのような努力をし、どのような決断を下すのか、そしてその結果に対してどのような態度を取るのかというのは、個人の人生においても社会の歴史においても、最も重要な悩みの一つです。どれだけ綿密な計画を立てたところで、将来のことは分からない。しかし一方で、計画を立てずに上手くいくこともない。やってみなければ分からないことは山ほどあるが、やってみた後には「あれが上手くいった」「これがダメだった」と反省することもできる。組織や社会の運営というのは、これの繰り返しです。

サッカーが、他に比べて不確実性や偶然性がものを言う範囲が広い競技なのだとすると、そのことによって、「偶然性と必然性の間で悩む動物」としての人間の性質が際立つ面がある。それがサッカーそのものに加えて、サッカーをめぐる人間論や組織論を面白いものにする一つの要因なのではないでしょうか。また、サッカーにおいて「1点の重みが大きい」というのも、人生や歴史が持っている「1回性」、つまり同じような機会がそう何度もめぐってくるものではないという性質に似ているように思えますね。

偶然性と必然性の間でどのような態度を持つべきなのか、そして1回的な出来事に向けてどのような決断をし、その結果をどのように受け止めるかというのは、きわめて人間的な課題です。これらは強い緊張感をもって向き合うべき課題ですが、平成の日本にはそのような緊張感が欠けていて、課題からの逃避を繰り返してきたようなところがある。

たとえば「規制緩和」をして社会の管理を緩めれば、為政者からみて予見不可能な領域、つまり偶然性が支配する領域は増えることになるはずです。しかしその一方で、規制緩和こそが社会に活力をもたらすのだという見通しは、大した根拠もないまま一種の必然として語られてきました。要するに偶然性と必然性の両側に大きく引き裂かれていて、その両方を睨みながら思考するという習慣がないわけです。また、種々の改革が次々に実行されてきましたが、たった1度の間違いが大きな禍根を残して後戻りできない場合もあるのだというような緊張感はありませんでした。

サッカーを見て政治や経済がよくなるとまでは思えませんが、せめてサッカーと同程度には緊張感をもって社会的な課題に向き合うという習慣を、これから我々は持たねばならないではないでしょうか。(テスト)

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