【川端祐一郎】「戦争論」特集を通じて世界と国家の統治を考える

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

コメント : 2件

『表現者クライテリオン』の最新号では、「MMT」と「第二次世界大戦」を特集しています。最近何かとMMTが話題なのでそちらを目当てに購入される方も多いとは思うのですが、第二次大戦特集の方もきわめて重要な論考がそろっていて読み応えがあります。
https://the-criterion.jp/backnumber/86_201909/

柴山桂太氏の『繰り返される悲劇』は、第一次大戦後に国際経済システムが不安定化し、国家間の摩擦が激化する一方で有効な統治の枠組みが築かれることなく、なし崩し的に第二次世界大戦に突入していった経緯を振り返ると、21世紀初頭の我々がほとんど同じ道を辿ろうとしているように思えると指摘します。例えばアメリカの覇権に陰りが見え、しかも大国としての責任を果たす意志も失いつつある今の状況が、かつてイギリスの衰退とともに国際社会が統治能力を失い、世界大戦にまで突き進んだ歴史と重なって見えるという、不気味な予言です。

長谷川三千子氏の『百年の欺瞞を暴け』は、第二次大戦後の国際秩序は戦勝国が「力」を以て「正義」を偽装することで作り出してきたもので、しかも敗戦国たる日本はそのことに疑念を差し挟むどころか、むしろその偽善に加担することで経済的繁栄を手に入れてきたと論じます。面白いのは、その偽善や不条理というものが単に戦勝国の利害追求から来るものではなく、20世紀の人類が国際秩序を成り立たせる原理を根本から見誤ってきた結果だ、としているところです。

話が少し遡りますが、第「一次」世界大戦は各国指導者の誤解につぐ誤解によって連鎖的に引き起こされたシステムの暴走のようなものであって、分かりやすい覇権主義の産物ではありません。ところが戦勝国であるイギリスやフランスは、詭弁じみた理屈を駆使して、ドイツに対し一方的に過大な責任を押し付けました。これが第二次大戦の遠因となったことはよく知られていますが、それに加えて長谷川氏は、第一次大戦後の戦間期に急速に進められた「戦争の違法化」という国際政治上の潮流が、深刻な欺瞞を孕んでいたと指摘します。

従来、戦争という手段に訴えることは主権国家の権利であるとすらされてきましたが、戦間期には――その萌芽は19世紀にあったのですが――国際連盟規約や不戦条約にみられるように、戦争そのものを「違法」とする流れが生じました。この「戦争の違法化」はじつは、私も誤解していたのですが、当初は「現代の戦争というものは各国の複雑な相互関係から生じるものであって、いずれか一方の責めに帰することはできないから、戦争そのものを違法とするほかない」という理念に基づくものだったそうです。

ところがその後、「戦争の違法化」は「侵略戦争の違法化」へと限定されることになってしまいました。これはつまり、戦争当事者を「侵略側」と「自衛側」に分ける発想であって、そのおかげで「どちらの国が悪いのか」という正邪をめぐる不毛な論争が絶え間なく惹起されることとなりました。そうやって戦争を「善悪」のフレームに押し込めたことが、今も我々の歴史認識を歪めているのであり、さらには国際秩序が本来持つシステミックなリスクを捉えづらくしているのではないでしょうか。

ところで、日本の戦った大東亜戦争に焦点を合わせたとき、私は「反省」ばかりが先立つのは一種の視野狭窄であると思うのですが、大敗北を喫したのである以上は、その原因を論じないわけにもいきません。

野中郁次郎氏の『日本に戦略ありや?』によると、真珠湾攻撃より20年も前から米軍は、「太平洋方面においては、日本軍による島嶼への奇襲によって戦端が開かれ、米側が『敵前強行上陸』による奪還を首尾よく遂行できるか否かが勝負を分けるであろう」と睨んでいた。我々日本人の記憶には、太平洋の島々における玉砕戦が非常に強く印象付けられていますが、「上陸戦」というのは戦史上はじつは珍しいものであって、アメリカはそのための戦術を20年以上かけてイチから開発していたのでした。

逆に日本軍は、空母機動部隊によって敵基地を叩くという斬新な戦略を世界に先駆けて考案し実証したものの、「島嶼防衛」については経験も戦術研究の蓄積もありませんでした。しかも日本では陸海軍を統合した戦略策定の枠組みがなく、両者が対立しても「両論併記」したまま決定を先送りするのが常で、とてもアメリカと戦える組織にはなっていなかった。日本人は昔からコンセプトづくりが苦手であり、小さな「作戦」は立てられるものの「戦略」レベルでは今も無策に等しい、と野中氏は警鐘を鳴らします。

磯邉精僊氏の『大衆の戦争としての二次大戦』は、明治期に組織された日本軍が士族の系譜にない「平民軍」であり、昭和に至って暴走したとされる「軍部」のエリートもその多くは平民の出が占めていたことに着目して、あの戦争を総括しようとするものです。その平民軍の兵士ひとりひとりは、およそ大衆というものが示し得る最大限の、気高く勇敢な姿で太平洋の島々に斃れていったわけですが、一方で大衆であるが故の「政治への不適応」こそは、大敗戦の主たる原因であったと言わざるを得ないのではないか、と。

身分制が概ね過去のものになったとは言え、一国の指導者にはある種の「貴族」性が求められる。ここで貴族というのは、国を率いることが「普段の生活」として板に付いたような人々を指しています。田畑や工場を現場とする庶民の感覚ではなく、国家の運営を生活の現場とするような人たちの、それこそ天皇を中心とする具体的な人間関係とそこに育まれる日常感覚が、政治の決断や戦争の指導を地に足の着いたものにする。つまり、貴族が「貴族の常識」や「貴族の生活感覚」に従って行動することでこそ、大きく道を踏み外さずに済むのではないかというわけです。

佐藤健志氏の『失われた政府への信用』は、太平洋戦争の開戦の要因を世界史的文脈に照らして整理した上で、あの戦争が「結果としてもたらしたもの」は何かを考察しようというものです。佐藤氏は、最大の帰結は「日本国民が政府というものへの信用をなくしたこと」であると言います。

戦前の日本人は、政府によって奉公を強要されたのだと言いながら、じつは「政府は国民の面倒をみてくれるものである」という素朴な信念を共有していた。ところが太平洋戦争に至って、政府の国民に対する要求はエスカレートする一方、政府はついに国民の生活を守る責任を全うすることができなかった。

国民は「政府に裏切られた」という感覚を抱き、この感覚がいわゆる戦後民主主義の基調を成すこととなりました。そして自国政府への不信と、米軍の(少なくとも装いとしては)寛大な施しとが相まって、「対米従属」が戦後の習わしとなったわけです。

ちなみに今回は「対米従属文学論」座談会でも、施光恒さんをまじえて、吉田満の『戦艦大和ノ最期』と島尾敏雄の『出発は遂に訪れず』という2つの「特攻文学」を論じています。

今回の戦争特集に寄せられた論考を読んで共通していると思うのは、国際社会に関しても日本国家に関しても、いかにして「統治」の意志と能力を持ち続けるかが重要な問題だということです。戦争が悲惨な出来事であること、そして個人や他国の権利を侵害する面を少なからず持つことも忘れてはなりませんが、それを避ける上で最も重要なのは、「秩序」の成り立ちを理解しそれを維持する努力であって、悲劇を嘆いたり悪行を断罪したりすることではないのではないでしょうか。

〈『表現者クライテリオン』最新号の購入はこちらから〉
https://www.amazon.co.jp/dp/B07TMRRBX8/

執筆者 : 

TAG : 

CATEGORY : 

コメント

  1. 学問に目覚めた中年。 より:

    先ず大まかには世界史の本質が西欧の歴史ですから、大航海時代を境とした、その目的は侵略と略奪の奴隷となります。それとこれまでの革命も当然、権力闘争になるわけですから、侵略者の少数精鋭が躍動するためには大衆に働きかけるため、あらゆる謀略を仕掛けたりする訳です。つまり政争を通じた外交こそ戦争の中枢となりその影響は計り知れません。では外交に於ける核とは、ズバリ軍事と経済の安全保障になるわけです。なので、お粗末な安全保障の責任感で今度、局長が退任される訳ですね。ダメだコリャ

  2. 神奈川県skatou より:

    >日本人は昔からコンセプトづくりが苦手であり

    こういう日本人による「日本人は・・・」論は大嫌いです。

    日本は作戦(戦闘)に強く、戦略に弱い、とよく言います。
    自分はそれは雑な議論であり、それが日本人気質云々という話になれば、昭和生まれまでの欧米コンプレックスと同等の残念だと思ってしまいます。
    コンセプトづくりがうんうんは、日本人が、ではなく、その人自身の自己紹介にすぎません。

    以下不確かな話ですいません。
    すごくざっくりした例で、国内に限定して、島津家というのは果たしてどんな藩だったでしょう。鎌倉時代から続く地頭、守護であり、戦国時代は鉄砲と捨て身の戦術で諸藩を瞠目させる武力を誇るも、九州平定を目前に、豊臣政権に屈します。これは合戦により雌雄を決したのでなく、豊臣政権の知略も大きかったのではないでしょうか。敗戦してない島津家に対する豊臣政権の処置は、武力で勝ち得た領地の大幅な没収でした。

    さて島津はその後どうなったか。次の舞台、幕末では他藩に比べ、実に慎重、老獪、表裏両面での活躍で、新政府まで達成しました。武辺者だけでない姿がそこにあります。
    かれらは足りないものを何代もかけて獲得し、最後には日本の主権の中心にまでたどり着いた、という可能性を自分は考えます。

    幕末の日本人、もしかすると薩摩藩士らは、平成・令和の我々よりも、ずっと戦略的思考がすぐれていた可能性もあります。そして同時に、我々にもその可能性が、舞台を世界にしてもありうるはずです。日本文化の特徴に戦略的思考が出来ない根拠を求めるのは卑下でしょう。それの実現は、ちょっとした考え方の切り替えかもしれません。

    >『日本に戦略ありや?』

    戦略のある人を見分けることが出来たか?という当時の制度のほうが自分には気になります。そしてそれは今も同様です。

    >佐藤氏は、最大の帰結は「日本国民が政府というものへの信用をなくしたこと」
    >であると言います。

    昭和7年生まれ、敗戦時は中学一年生の烈女から聞いた当時の述懐と同じです。思想的には、そこに借り物であるマルクス主義みたいなものが、単なる理屈だけの形だったとしても、日本の歴史的視座の継承よりも、輝いて見えた(過去形)ようです。
    むろん、政府を信じないぐらいですから、イデオロギーを叫ぶ人たちにもこりごりだったでしょう・・そこは団塊やら全共闘世代とは違うようです。

    はたして対米従属意識というと、そこは微妙で、この世代に限れば、9.11をみて、「・・・だけど、いい気味だね。」と言ったことを自分は忘れません。もうほとんど日本からいなくなりかけた世代ですが。

    長文もうしわけありません。
    最後に、「秩序」の成り立ちを考えるという主旨が、類を見ない素晴らしさであり、その議論が今後へ与える影響のすばらしさを確信いたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

メールマガジンに登録する(無料)