今回は、『表現者クライテリオン』のバックナンバーを特別に公開いたします。
公開するのは、仁平千香子先生の連載「移動の文学」、
第四回目の連載タイトル:「伝統の価値」第二編。
〇第一編
以下内容です。
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引揚者の多くが満州の凶暴なブヨや蚊の被害にあっているが、古賀は自然の虫除け対策を心得ていた。
虫が嫌う草を取ってきて周囲にばらまき、布製バケツに水を汲んで落ちている馬糞を入れ、上澄みを首筋に塗り、帽子の内側に塗ってかぶれば、虫の被害はなかった。
民家が見えたときは、ロシア人の家を探し、食べ物や必要物資を分けてもらった。煙突から出る煙を見れば家畜の糞を燃料にする中国人か、白樺や石炭を燃やすロシア人の家か見分けられた。
時折襲ってくる寂しさの波に負けそうなときは、大自然に声をかけた。太陽にはありがとう、野の花にはきれいだね、と話しかけた。
顔中が蛆の餌食になった無惨な死体に出会った時は、そっと体をうつ伏せに返して、祈りを捧げた。
古賀少年にこれほどの智慧を身につけさせたのは、コサックの伝統である。
コサックは解体させられたが、その生き残りは満州に逃げ込んだ後も、以前と同様の暮らしを続けた。子供のしつけも、宗教行事もそれまでの習慣に従った。
古賀は一家の長男として、特に祖父の強い希望で、立派なコサックになれるよう教育を受けた。このようにして古賀はコサックの騎馬訓練を受けた唯一の日本人となった。
少年たちにコサックの流儀や騎馬訓練を施すのは、若者のコサックの役目だった。
古賀は十七歳の青年から習った。青年は古賀に馬の乗り方、方位の見方、風の読み方、変動する天候への対処法など、森羅万象に関する一切を教えた。
五感を研ぎ澄ませて、鳥の動きや虫の鳴き声などから必要な情報を読み取る方法、飲める川水の見分け方、食糧や小川の探し方、自然の材料を有効な道具に変える方法など、騎兵として必要な知識を教えた。
仲間の少年たちからは動乱を生き抜く智慧や戦士としての心得を学んだ。仲間たちは自然への祈りや、騎兵隊としての覚悟を込めた歌の数々を古賀に教えた。
母親からは馬の世話を習った。毎朝起きると牧場に行き、寝藁を取り替え、新しい水と餌をやり、ブラッシングした。馬と出かけて帰ると、蹄の掃除を怠らない。
蹄を痛める原因になるゴミや土をナイフで丁寧に掻き出し、蹄鉄も定期的に取り替えた。長時間馬を走らせるときは、馬の息遣いを注意深く聞きながら疲れ具合をみて、適宜一緒に歩いた。轍の跡や窪みを避けて歩かせ、不注意で馬の脚を痛めることのないよう気を配った。
こうやって馬を人と同様に大切にするコサックの生き方を身につけた。
子供たちは「大人たちのやることをちゃんと見ておくんだよ」と繰り返し伝えられた。
大人たちはもう自分たちが祖国に戻れないことも、コサックとして復活できないことも知っていた。それでも受け継いできたものは残し続けなければならないと知っていた。
歩き続ける古賀少年は何度か日本人の集団を目にした。どの大人も、下を向いて悲壮感に満ちた顔つきで歩いていた。
少年はそのような大人たちを見るたびに、彼らのように元気を失えば死んでしまうと自分に言い聞かせた。
「あぶないときは落ち着きを無くした人間から死ぬということが、子ども心に理解できた」
と古賀は当時を振り返る。実際その現実を何度も目の当たりにした。
「本当の敵は銃撃でもなければオオカミでもない。焦燥と落胆に押し潰されて、生きる力をなくしてしまうことだ」
と少年は知っていた。
故郷を追われたコサックは、新天地でも洪水によって家や農地を度々失った。そんなときでも彼らはかろうじて残ったバラライカを手に歌を歌い、輪になって踊った。そしてまた家を建て、土を耕すことを仲間と誓い合った。
追い詰められても途方に暮れないコサックの不屈さが古賀少年の中にも生きていた。だから旅の途中、死を意識するほど余裕を失った時でさえ、笑って歌を歌おうと努めた。
このようにして日本行きの船の出る町まで二か月をかけて千キロ以上の道のりを歩き切った。休んだ日も、泣いた日も一日もなかった。
引揚者が必ずと言っていいほど経験した足の激しい損傷や激痛は、注意深く旅をこなした古賀少年には一切なかった。
「もし、引揚隊と一緒に行動していたら死んでいたかもしれないな」と古賀は当時を振り返る…(続く)
〈参照〉
石村博子『たった独りの引き揚げ隊』角川文庫、二〇一二
(『表現者クライテリオン』2021年7月号より)
続きは近日公開の第三編で!または、『表現者クライテリオン』2021年7月号にて。
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