!『表現者クライテリオン』最新(’22/3月)号発売中!
今回はクライテリオン最新号での特集座談会(「皇室論」を国民的に加速せよ!)を一部公開いたします!
是非、ご一読ください!
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「皇室論」を国民的に加速せよ!
施 光恒×
藤井 聡×
柴山桂太×
浜崎洋介×
川端祐一郎
皇室問題は保守思想界最大の難問
藤井▼今回のテーマは「皇室論」。これは日本思想界における最大の難問といっていいものですが、今日はこの問題について存分に、そして忌憚なく議論したいと思います。
なぜ、いま皇室かというのはあえて申し上げる必要はないくらい、話題に事欠きません。言論界問わず、広く国民が皇室の先行きを案じている現状があることはご承知の通りです。男系・女系をめぐる皇位継承問題や眞子様のご結婚問題、そして政府もこの度有識者会議(安定的な皇位継承のあり方を議論する政府の有識者会議)を開き、昨年十二月に最終報告を提出しています。
一方、皇室問題は、日本国家において立場を超えて論じなければならない最も重要な問題であるにもかかわらず、議論自体をタブー視する風潮が濃密にある。しかも、実に多くの識者たちが自分自身を特定の「○○論者」であるということにして、まるで思考停止しているかのように斯く斯くは絶対ダメだとか然々でなければ絶対ダメだなぞと声高に叫びつつ、一切の議論を受け入れない態度をとっている。その結果、皇室の成熟した議論が現代日本において圧倒的に不足しており、それがさらに皇室問題をより複雑化させている。
ついては本誌『クライテリオン』では、皇室に関する特定の主義主張を支援し、それを国民に周知しようとする意図とは無縁に、日本における皇室の重要性を鑑み、そのあり方についての国民的議論を活性化すること、その一点を本特集の目的に据えているのだということを初めに言明しておきたいと思います。
そしてその上で、本座談会の冒頭で、皇室を論じるにあたって踏まえておくべき重要な論点を指摘しておきたいと思います。
男系と聖、二つの伝統は現代につながるのか
藤井▼それでは、まず私から重要な三つの論点を提示したいと思います。
第一に皇位継承は日本の伝統の中心に位置するものであり、そして伝統には、(長く続いてきたものには重大かつ深淵な意味が宿っているという意味での)「時効」があり、したがって伝統として継続してきたものの前ではむしろ積極的に改変改革を慎み、粛々と継続しなければならない、という原理があります。だからその原理を踏まえれば、これまで例外なく続けてこられた、「皇位継承を男系男子」に限る、という「男系論」を採用するのが当然だということになります。
とはいえ、男系継承を成り立たせていたのは「側室制度」であった一方、この側室制度は近代日本の中で棄却されている。したがって、側室制度がなければ、男系男子のみに皇位を継承していては、遅かれ早かれ皇統が断絶する可能性が極めて高い。事実、客観的に行われた統計学的シミュレーション分析によれば、「旧宮家」を復活して男系男子の皇族を増やしたとしても、側室制度がなければ、長くても百年から二百年、短ければ数十年で皇統が途絶えることになるという結果が示されている(本誌[資料](川端祐一郎)を参照されたい)。これを憂慮し、側室制度がない前提で安定的な皇位継承を実現する方法として提案されているのが、男系にのみ皇位継承をしていくという制度を止めて、男女の別なく子に皇位を継承していくという仕組みに変えることもやむなしと考える、という方法です。こうした議論は一般に「女系容認論」(母方からのみ天皇の血筋を引く天皇を認める議論)と呼ばれますが「直系論」と言い換えた方がより分かりやすいと思います。この制度は例えば英国王室が現在採用する制度です。
以上が第二の論点ですが、第三番目の論点が、本特集のサブタイトルでもある「俗悪なるものへの最後のアンチ」であるという側面です。この議論は、三島由紀夫が例えば『文化防衛論』の中で言及しているものです。そもそも日本国家における「聖と俗」の「聖」なるもの、あるいは日本の品位品格の中心にあらせられるのが皇室であり、新嘗祭・大嘗祭をはじめとした宗教性の根幹を担っているご存在であり続けている。すなわち、皇室は日本の聖や品位、宗教性といった「伝統」を継承し続けてこられている。三島はこうした意味での皇室の伝統を「俗悪なるものへの最後のアンチ」と定位したわけです。
ただし、この「俗悪なるものへの最後のアンチ」としての「聖」なるものという伝統と「男系男子」という伝統とが、必ずしも一致するわけではない、という問題が今、現実的に生じ始めているわけです。これこそ、今の皇統の危機と呼ばれるものの本質ではないかと思います。
つまり、二千年以上続いた男系男子の形式を護ることこそが「俗悪なるものへの最後のアンチ」だと構えるのなら男系論に傾き、皇族により引き継がれてきた伝統の中身こそが「俗悪なるものへの最後のアンチ」であるなら直系論、女系容認論に傾くことになる。なぜなら、男系論を貫徹しようとすれば、今一般の庶民として暮らしている男系男子の方に皇族になっていただかざるを得なくなるからです。
以上は取り急ぎの論点整理であり、ここではあえて結論は急がないようにしたいと思います。私自身、この問題に結論を出すことについては大いに逡巡しているというのが正直な心情ですから。
福沢諭吉が説く皇室の国民をまとめる「緩和力」
施▼皇室と国民の関係を論じるにあたり、福沢諭吉の「帝室論」が非常に参考になります。
福沢諭吉は決して皇国史観の持ち主ではありませんが、日本の秩序というのは、いつも皇室を中心に成立してきたのではないかと喝破します。
日本の人々をまとめ、争いを緩和し、秩序を生み出す。そういう機能が昔から皇室には備わっているのではないか。そして、日本国民は数百年、数千年来の君臣情誼の空気の中で生きてきたものであるから、この情誼によらなければ国の安寧を維持する方策はないであろう。こうした趣旨のことを述べています。
西洋では政治秩序は政治権力と法がもたらすと考えるのが一般的ですが、日本は皇室を中心として秩序をつくってきました。つまり、皇室への崇敬の念を共有することで秩序を成り立たせてきました。
私は皇室を中心とした秩序の作り方というのが現代まで含む日本人の一種の「心のかたち」に一番即しているのではないかと思うのです。日本の伝統の中で育まれてきた、日本人が一番しっくりくる政治秩序の作り方ではないかということです。
例えば出光興産の創業者である出光佐三という人がいます。百田尚樹が『海賊とよばれた男』という小説で主人公のモデルにした人ですが、日本の精神、道徳の根幹は「互譲互助」という言葉で表せると語っています。秩序も互いに譲り合い、互いに助け合う中でできてくる。そうした秩序形成の中心に位置するのが皇室制度であると出光佐三は言っています。西洋社会の秩序の作り方とはまるきり違います。日本社会の秩序形成のあり方とは人々のある種の共通の道徳意識や作法(マナー)を中心に秩序をつくっていくのだと。そして、そういう秩序の作り方の中心にあるのが皇室制度だといえるのではないか。
福沢諭吉が強調したのは、そういう意味で皇室というのは全ての国民の崇敬、敬愛の対象でなければならないということです。皇室は嫌われてはならないし、政治的な争いの渦中に巻き込まれてもならない。また政治的な党派争いのどちらかの立場に加担することがあってはならない。
吉野作造も同様のことを言っておりますが、なぜそう戒めるかというと、皇室が特定の立場をとってしまうとそれに反対する人々が敵に回ってしまう恐れがある。国民の間に分断をつくらないようにするためなのですね。
福沢は皇室の国民を緩和しまとめるこうした力を評価し、これがなくなってしまうことを強く恐れています。
私は原則として、皇位継承は「男系男子」を守っていくべきだと考えます。様々な理由がありますが、一点だけ挙げると、女系天皇を許せば、皇位簒奪を狙う勢力が現れることを恐れるからです。様々な外国勢力、宗教勢力、政治勢力が女性の天皇の夫になろうと暗躍してくるのではないでしょうか。女性皇族は安心して暮らせなくなるのではないでしょうか。むろん男性の天皇に嫁ぐことによりそれを目論むことも想定できないわけではありません。しかし、東アジアの社会通念としては、家は男が継ぐものだという考えが事実として根強くあるので、期せずしてそれが障壁になってくれているということが少なからずあると思うのです。
そもそも一二六代のうち一例もない女系天皇は「天皇」と呼べるのかも疑わしいです。「女系」となると、正統性に疑念が生じ国論が分断される恐れがあります。国民各派を緩和しまとめるという皇室の力を削ぎ、その存在意義が根底から揺らぐことになりかねません。国民をまとめるためにも男系男子でつなぐよう最大限の努力を払うべきだというのが私の考えるところです。
現代社会で天皇の「無私」性を守るのは難しい
柴山▼有識者会議から安定的な皇位継承のあり方として二案出されました。
一つは女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持する。もう一つが、旧宮家の男系男子が養子縁組する、あるいは皇族復帰する。前者は「皇女制度」と呼ばれるものですが、男系論者からは「女系天皇」へ通じるものだと否定されている案です。もう一つは男系を維持するための案ですね。
皇室には実に長い歴史があって、常にその時代の状況にうまく適応することで存続してきた面があります。制度の柔軟性が非常に大きかったからですが、やはり今の皇位継承問題も現代的な社会条件や価値観と、皇室制度がどのような形で折り合えるのか、という問題を突き付けているようにみえる。
男系男子での継承は、側室制度がなければ不可能に近いことは、歴史的にも明らかです。歴代天皇のうち、正室の皇子は三八・五%しかいなかったと、高森明勅先生がお書きになっている。ということは、半分以上が側室その他のお生まれだということですね。
これは明治の時にも議論されたことのようですが、当時は宮家があったから今よりずっと恵まれた状況でした。
かといって、旧宮家を復活するといっても国民感情として難しい面がある。また憲法学者が「門地門閥」で差別する憲法違反だと言い出しかねない。仮に養子を取ったとしても、その次に男子が生まれるとも限らない。現代的社会条件の中で、皇室を今の男系男子のままで続けていくというのは相当難しいだろうと思わざるを得ません。
長く続いた男系男子で続けられるならばいいけど、続けられないのであれば女系での継承を考えるしかない、というのが国民のおおよそのコンセンサスとなっているように思います。ただ、これは天皇の正統性に関わる問題なので、歴史解釈を含めて慎重な議論が必要です。
それから現代の資本主義と民主主義という制度と、皇室制度が非常に折り合いが悪いという問題があります。それこそ現代社会には公家も華族もないので、皇室のご成婚の相手は、例えば資本家の生まれということになる。それがいいことなのか、ということはよく分かりません。
これは、天皇の「聖」性をどうやって守るのか、という問題とも関わってきます。
天皇が聖なる地位であるためには、生身の個人であるということが隠されていなければならないのですが、大衆メディア社会で振る舞いの一挙手一投足が報じられる中にあっては、ちょっとしたことでスキャンダルの対象になりやすい。
俗なるものから天皇の聖性を護るということは、男系継承を守るということ以上に難しくなっているのではないか。
垂直、水平、宗教、三つの正統
浜崎▼現在の皇室をめぐる問題は一通り確認できたと思うので、私は「正統論」の視点から皇室を考えてみようと思います。というのも、律令体制、幕藩体制、明治近代、戦後と、変わっていく時代の中で一貫して日本の中心に位置してきた皇室を考えようとしたとき、その存在を支えてきた「正統性」の概念を考えないと、男系・女系の議論ともに恣意的な感情論に流されてしまう恐れがあるからです。
天皇については多くの論点があり、また、それらは絡み合って存在しているわけですが、「純粋型」としては、おおよそ次の三つの正統性が考えられます。
①垂直的正統性(政治的凝集性)
②水平的正統性(生活的感情移入)
③宗教的正統性(非日常的神秘性)
まず、①の垂直的正統性(政治的凝集性)ですが、これは幕末に外国(北)からの脅威に対応しなければならなかった水戸藩が描き出した天皇像です。民心を結束させ、忠義を果たすべき「中心」、『大日本史』から練り上げてきた歴史的垂直性の物語とでもいったものです。実際、会沢正志斎が言った「万世一系」や「国体」という概念は、尊王攘夷や明治維新を導き、「教育勅語」にまで響いてくる。この危機に際して必要とされる政治的中心性の概念、これが一つだろうと。
次に②の水平的正統性(生活的感情移入)ですが、これは、柳田國男の議論が代表的です。大嘗祭や新嘗祭を、日本の村々でやっている秋の収穫祭なんかと重ね合わせ、天皇の祭事を、民衆生活の「象徴」と捉える解釈です。この議論は、イザナギ・イザナミから天照大神をはじめ八百万の神が生まれてきて、各地の神社に祀られていくという物語とも相性がいいし、天皇を、日本という国の神主さまと考えれば、戦後の象徴天皇制とも折り合いがつく。つまり、日本人の生活感、その中心に天皇を見る解釈です。
そして、③の宗教的正統性(非日常的神秘性)ですが、分かりやすいのは、折口信夫の「天皇霊」でしょう。
柳田とは違って、折口は、大嘗祭の意義を生身の身体に「天皇霊」を付着させるための儀式として見る。これによって天皇の演劇性(芸能性)や神秘性、あるいは、現実を超えた超越性が強調されることになります。
以上、大きく見て三つの「正統性」の観点があるかと思うんですが、そこに皇位継承問題を加えて考えてみると、男系維持というのは、①②③の全ての「正統性」を満たすことができる一方で、しかし、近代においては皇位継承の「安定性」が保証されないというデメリットがある。
一方で、女系容認論は、その安定性とともに②と③の「正統性」までは担保することはできるんですが、①の「正統性」(伝統)を決定的に失ってしまうことになります。
正直いって、①の「万世一系」(男系)の事実を失ってしまうことの影響がどれほどのものになるのかということは、俄には分かりませんが、少なくとも、二千年以上続いてきたといわれる一つの歴史を取り返しのつかない形で毀損してしまうのではないかという恐れがあるのは事実です。
いずれにしろ、男系・女系どちらを採っても、何かを失ってしまうというのが、今の皇室をめぐる危機の本質なんでしょう。こういうときは、やっぱり人間論の原理に立ち戻って考えるしかないと思います。そこで私が、思い出すのは、ウィリアム・ジェームズの言葉(『プラグマティズム』)なんですが、ジェームズは、実践(プラクシス)のクライテリオンを「最小の動揺と最大の連続性」だと定義するんです。が、それなら、男系・女系いずれにしても「動揺」してしまう皇室論において重要になるのも、やはりその「最小の動揺」がどこにあるのかということではないでしょうか。
すると、態度が定まってきます。まずは男系維持のために全力を尽くす。ただし、その可能性を十年から二十年探っていく中で、万が一男系が維持できなくなった場合を考えて、女系の議論を踏まえておく。つまり、①の正統性が失われてしまう時のことを考えて、女系の物語──国民が共有できる正統性──を考えることも忌避しない。こういう二重の態度、それが必要ではないかと。保守思想が単なる伝統墨守とは違うのもその点でしょう。そんな「保守」の平衡感覚が、今、問われているんだと思います。
。。。(続く)
(『表現者クライテリオン』2022年3月号より)
他の連載などは『表現者クライテリオン』2022年3号にて
『表現者クライテリオン』2022年3月号 「皇室論 俗悪なるものへの最後の”反(アンチ)”」
https://the-criterion.jp/backnumber/100_202203/
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