新規感染者数が減ってきたことで、二度目の緊急事態が解除されるかと思っていたら、首都圏では解除を2週間遅らせるとのこと。関西では解除されましたが、リバウンドのおそれがあるという理由で、飲食店の時短制限などはすぐには撤回されないようです。
今回の緊急事態宣言についての私の考えは、『表現者クライテリオン』最新号(https://the-criterion.jp/backnumber/表現者クライテリオン2021年3月号/)の座談会で話したので、ご関心のある方はそちらをご参照ください。(なお、今号は特集テーマ以外にも、さまざまな論考や座談会が載っており、「雑」誌として興味深い読み物になっていると思います。)
ここでは違う話題を取り上げてみます。この一年、われわれは厳しい生活を余儀なくされてきました。不要不急の外出は取りやめるよう要請され、人と出会う時でも直接の接触を避けるよう促されてきました。社内の会議も大学の講義も、多くがオンラインに切り替わりました。こうした「新たな生活様式」によって失ったものは何だったのか。コロナ禍がいったん落ち着いたタイミングで、そのことを考えてみたいのです。
少し、迂遠に思えるかもしれない話から始めましょう。先日、ある学生に「対面授業の復活を望むか」と聞いたところ、できれば復活してほしいとのこと。理由を聞くと、おおよそ次のような答えが返ってきました。
「リモート講義で不満なのは、授業が終わった後で気軽に質問にいけないことです。コロナ以前は、講義終わりの先生をつかまえて、講義と関係ない話をすることもできました。時事問題、例えば『そういえば米大統領選はバイデンが勝ちましたね』というような話題を振ってみて、考えを聞いてみる。もちろん、リモート講義でも質問はできるのだが、講義と関係ない質問をしにくい空気があります。この一年で、先生方と何気ない『立ち話』ができた時間が、いかに貴重なものだったのかに気づかされました。」
この学生の話はよくわかります。私も学生の時分には、講義終わりの先生のところによく質問に行きました。話しているうちに話題が思わぬところに飛ぶこともしばしばで、そのときに聞いた話や考えたことが、今も記憶の深いところに刻まれています。大学に行く価値は、図書館を自由に利用できることと、その道の専門家と言われる先生に自由に質問をぶつけてみること、運がよければ講義後に研究室や喫茶店に連れて行ってもらって---さらに運がよければ居酒屋に連れて行ってもらって---あれやこれやの知的雑談ができるということ。私はほとんど講義に出席しませんでした(そういうことが許されていた時代でした)が、今振り返ると、図書館の利用と「この人は」と思った先生への質問時間、この二つのために授業料を払っていたようなものです。
私の思い出話はともかく、先の話で学生が話してくれたのは、大学で本当に価値ある体験は、大学が提供する講義のような「公式」の時間にある以上に、講義終わりの何気ない会話のような「非公式」の時間にある、ということでした。科目の内容を勉強するだけならオンラインでもできます。しかし本当に大事な話は、空き時間での「立ち話」や「茶飲み話」といった、ゆるい付き合いの中でしか聞けないのではないか。
似たような話を、最近、企業人からも聞きました。リモートワークが普及したことで、会社に出勤しなくても仕事ができるようになった。しかしオンライン会議だけだと、何気ない会話をする機会がない。特に新入社員は、飲み会の場もないため、仕事上のちょっとした疑問を先輩や上司に聞くことができない。そのため今年の新入社員は、会社に適応するのに時間がかかっているように見える、というのです。
この企業人は私と同世代なのですが、およそ次のように言っていました。
「以前は茶飲みの時間や飲み会の席で若手にアドバイスすることもできた。だけど今はリモート推奨の時代なので、若手が何に困っているか、何に躓いているかを直接聞くことができない。自分が若い頃は、人生の先輩にずいぶん助けてもらった。今はこちらが年長者になって、次の世代に経験を伝えてあげたいのに、それができないのがつらい。」
もちろん、すべての先輩や上司が、そのような面倒見の良さを持っているわけではないのでしょう。会社によっては、年長者の小言に「うっせぇわ」(https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20210204/)と感じている若手がいることも、十分に想像できる話です。
ただ、どんな業界でも、大事な話は仕事の時間だけでなく、仕事外の時間で伝えられることが多いというのも事実でしょう。ちょっとした質問、空き時間での会話、飲み会で聞く先輩の、幾分話を盛っているに違いない成功談や失敗談。仕事の隙間時間や、仕事終わりの自由時間に交わされる、そうした世代間の気楽なコミュニケーションから、若い世代は多くを学ぶものです。
リモート会議にもそれなりの利点もあります。通勤時間が浮くので時間が有効に使えますし、オンライン会議は要点だけが話し合われるので無関係な話に流れる時間が減ります。出張しなくていいので経費が節約できるというところもあることでしょう。
他方で、仕事終わりの雑談はなかなかできなくなり、どの職場にもあった「飲みニケーション」は制限されてしまいました。面倒事から解放されたと感じる人もいるでしょうが、先の企業人の話でいえば、若手が年長者にそれとなく助けてもらう機会も減ってしまったわけです。
コロナ自粛による経済社会への悪影響は、数えていくとキリがありません。飲食店の閉店は相次ぎ、飲み会やカラオケ、外出や旅行などでストレスを発散する機会も極端に減りました。友人づきあいやアルバイト等で、人生の経験値を増やすべき時期にある若者は、政治家やマスコミからコロナをばらまく元凶のように扱われて、意気消沈しています。自宅で過ごす時間が増えたことでDV(ドメスティック・バイオレンス)の件数も増えました。外出機会を失った老人の孤独は募り、女性や若者の自殺者数も増加傾向にあります。
ロックダウン政策のしわ寄せが、とりわけ女性や子供に行っているのは、日本だけに限りった話ではありせん。国連機関は各国統計を下に、自宅待機中に女性への性暴力が増加していると報告しています(https://www.japanforunhcr.org/archives/22022)し、学校閉鎖による子供の教育機会の損失が巨大なものになるとの警告を発しています(https://www.unicef.or.jp/news/2020/0249.html)。
以上は、多くの論者によって言及されている論点です。ここで述べたかったのは、それらに加えて、自粛政策には、統計データでは見えない副作用もあるのではないかということです。大学であれ企業であれ、組織の活動は「公式」の時間で行われるものだけでなく、「非公式」の時間で交わされる会話やちょっとしたつきあいによっても成り立っています。誰かの知識や体験談を聞く、耳学問の時間。閉じた空間の中で、酒精の力を借りたりして行われる相談事。若手の成長を促す、年長者のちょっとした気遣い。コロナ以前の日常には普通にあった、そうした微細なコミュニケーションが、この一年でだいぶ滞ってしまいました。
西部邁は、(宇沢弘文から聞いた話として)よく、次のように話していました。「イギリスでは、研究の大事なアイデアは立ち話で交わされる。大学や研究会の帰り道、たまたま一緒になった同僚と、歩きながら何気ない会話をする。研究の大事なアイデアは、そういう時に交換されることが多いんだ」と。
そのため西部先生も、大事な話はちょっとした空き時間、たとえば移動中のタクシーの中や、一軒目から二軒目---あるいは二軒目から三軒目---に移動するときの歩き時間の最中にすることが多くありました。年長者から年少者のアドバイスは、公式の場で伝えるにはいささか照れくさいものがありますが、一緒にいる空き時間に「たまたま思い出した」という体で話すことで、かえって大事な話が聞き手に印象づけられるということもある。年長者であれば誰しも、そういう知恵をいくつも持っているものですが、コロナ禍はそういう知恵を発揮する機会の大半を、われわれから奪ってしまいました。
コミュニケーションには「オン」のものと、「オフ」のものがあります。「オン」のコミュニケーションが、それなりの緊張を強いられる仕事中に交わされるものだとすれば、「オフ」のコミュニケーションは緊張から解放された、打ち解けた付き合いの中で交わされるものです。不要不急の外出を制限し、一定の対人距離を強いられる「新たな生活様式」は、この「オフ」の時間を極限まで切り詰めてしまいました。そのことでわれわれは、「オフ」の会話がいかに大事なものであったのか、再確認しています。それがこの一年の経験で分かった、重要な教訓だったのではないでしょうか。
緊急事態宣言が解除された後も、政府は不要不急の外出(特に夜の外出)を控える要請を続けるとのことです。そのため夜の飲み会は、当面、元通りには戻ることはないでしょう。昼の茶飲み話でさえ世間の目を気にすると自由にはできない---そのような自己規制が、社会の間ですっかり定着してしまったように見えます。
感染者の増加による医療現場の大変さや、景気の落ち込みによる失業や倒産の増加は、コロナ禍のわかりやすい被害です。だが本当に危機的なのは、組織の維持に必要な(普通は意識されにくい)活動、仕事の切れ目や空き時間の何気ない会話の中で交わされる微細なコミュニケーションの喪失ではないか。上の世代の経験を下の世代に伝える。上の世代には見えにくい下の世代の悩み事を聞く。「立ち話」を通じて、大事なことをそれとなく相手に伝える。そういう目に見えない気遣いの文化が失われると、社会組織をなめらかに動かす潤滑油が蒸発してしまうだけでなく、仕事上の気づきやアイデアを交換するという経済活動の重要な部分も失われてしまうのではないか。
私は、(必要な感染対策や医療態勢の強化を前提に)一刻も早く経済社会を正常化すべきだという立場です。だが仮に、今の自粛モードをまだ続けなければならない、それがテレビ世論の総意なのだとしても、それによって失われるものの大きさにもっと自覚的でなければならないと思います。社会を成り立たせている微細なコミュニケーション、特に世代間のコミュニケ—ションだけは、どのような困難な状況にあっても、可能な限り維持し続けなければならない。そうしなければ、経済社会の停滞と断絶が、半年後や一年後には今よりもっとひどくなる。この一年の「実験」で明らかになった教訓とは、そのようなものではないでしょうか。
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コメント
先生、発信が少なくて寂しいじゃないですか。佐伯先生も少ないですよね。
昨年、施先生と柴山先生、雨の日でしたが精華女子短大に来られましたよね。
残念ながら柴山先生のお話の前に高齢のお袋が具合悪くなって帰宅しましたが、高齢者には難しい話は今さらよく解らないみたいですね。
柴山先生、期待してます。また発信お願いします。
私はいくつかの職場でソフトウェアの開発をしてきましたが、優秀なエンジニアが揃っている職場ほど雑談が活発です。ちょっとした雑談スペースやホワイトボードが各所にあり、アナログなやりとりが行われています。
ソフトウェア開発は、物理的に離れたリモートでの作業を最も早くから取り入れていた業種ですが、実は物理的に近い場所で行った方がよい「コミュニケーション」を非常に大事にしています。リモートでも行える「作業」とそれを区別して扱っているだけです。
これは海外のエンジニアも同じで、以前アメリカと日本で共同で開発をしていたときに、TV会議で先方のエンジニアが「一緒に話がしたい」と言って日本にやってきたことがありました。彼は一週間ほど日本に滞在し、私達と同じ社屋で働いて、一緒に食事をし、休憩時間は皆でゲームをして帰っていきました。その時間が大切な時間であることを彼は理解していたのだと思います。
単なる情報の伝達はリモートでも代用が利きますが、皆で協力して何かを作る・誰かを育てる・何かを成し遂げる、といったことはリモートだけでは不可能です。
柴山先生こんにちは。
この文章を拝見しながら率直に頭に浮かんだのが、柴山先生が薫陶を受けられた恩師の佐伯先生が述懐されていた著書の一文でした。
それは佐伯先生の青春時代の思い出で、夜を徹して語り明かされた不動の師 西部邁先生との体験談の一幕でした。
そこにも恩師と目上の方々を敬う佐伯先生の気づかいの【心】が存在していて、人のつながりや歴史のつながりを【表現】されているような感覚でした。
それに比べて、大変なコロナ禍の最中に無益なリコール運動に参加して、ひとたび問題が起これば責任逃れや不誠実な行動をする、うつけた大人たちの所業には憤りしかありませんし、それを起こさせた大人の責任として私自身も子供たちに申し訳なく痛感しているところです。