今回は『表現者クライテリオン』2021年5月号の掲載されている特別座談会を特別に一部公開いたします。
公開するのは『表現者クライテリオン』2021年5月号の特集「コロナ疲れの正体 暴走するポリコレ」に掲載されている座談会です。
メンバーは東浩紀先生・辻田真佐憲先生・本誌編集の藤井聡・浜崎洋介の4人です。
興味がありましたら、ぜひ本誌を手に取ってみてください。
以下内容です。
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藤井聡(以下藤井)▼
世の中には様々な言論課題がありますが、コロナ問題はそれらの中でもダントツでひどい話と言えるように思います。
(中略)
こうした理不尽極まりない状況を読み解くのに、今回は「ポリコレ」という概念を使いたいと思っているのですが、このポリコレについてまず、浜崎さんに簡単にスケッチしてもらおうかと思っていたんですが、よろしいでしょうか?
浜崎洋介(以下浜崎)▼
そうですね、(中略)ただ、いきなり「ポリティカルコレクトネス」(政治的正しさ)といっても、「?」となる読者もいると思いますので、なぜ「ポリコレ」と「コロナ」なのかということについて、冒頭で少しまとめさせていただこうかと思います。
まず、「ポリティカルコレクトネス」という概念は、カッコ付きの「リベラリズム」の、ある種の極限に現れてきた概念ではなかったかというのが私の解釈です。
「リベラリズム」というのは、十七世紀に政治色を持ち始める概念なんですが、要するに、個人の信仰の自由を守る動機から語られ始めた言葉だということです。ただし、「個人の信仰の自由」を守るためには、「近代国家」が必要だろうということで、スピノザなんかがその典型ですが、その初期は包摂概念とセットで語られていたんですね。
そして、その後も、この構図は引き継がれていき、十八世紀になると、「絶対王政からの自由」が「国民国家への自由」とセットで語られ、十九世紀になると、「伝統主義からの自由」が「近代市民社会への自由」とセットで語られるようになる。
そして二十世紀には、「近代市民社会からの自由」が、例えば「社会主義への自由」とセットで語られるようになっていくと。
つまり、「リベラリズム」というのは、常に「~からの自由」と「~への自由」のセット、言い換えれば、「自由概念」と「包摂概念」のセットで語られてきたということです。だから、それは時に「保守」とも手を携えることができたのだと。
ただ、それが変質するのが、一九七〇年代ですね。ついに、包摂概念なしの「~からの自由」だけが語られ出すんですが、それは例えば、「大きな理念」としてのマルクス主義に対して、左翼内部でのアイデンティティポリティクス(マルクス主義内部でのミクロな差別批判)として立ち上がってきます。
それは最初、単なる対抗運動だったんですが、八〇年代~九〇年代になると、カルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムの流れなんかも取り込む形で、それが「差異の政治学」として大学でヘゲモニーを握っていくことになる。そしてさらに、彼らの差別批判の言葉が、次第に社会の中で中心化していくことになると。
しかし、そうなるとリベラリズムは問題に突き当たってしまう。というのも、彼らの語る「~からの自由」は、被害者感情(ルサンチマン)に発した主観的な批判意識にはなり得ても、社会の包摂概念(客観的な権力)にはなり得ないからです。
そうなれば、価値基準はますます個人化していく一方で、「個人的価値」を踏みにじる言動は許し難いという「空気」だけが膨張していくことになるので、次第に「差別」ではなく「区別」をめぐる社会的秩序についての冷静な議論さえ抑圧されてしまいかねないということになってしまった。
そして、今や、人格や容貌についての常識的判断さえ、短絡的に「差別」と結びつけられ、その批判を恐れるあまり、人々は、「事なかれ主義」の沈黙の中に呑み込まれていったというわけです。
しかも、批判を恐れる大学や企業は、常に世間の先回りをして建前を加速させますから、ますます社会全体が強張った「空気」の中に、あるいは、「ポリコレ違反者」を取り締まることで「正義づら」をする偽善者たちのルサンチマンの中に呑まれていってしまった。
そして、今回、そこにコロナが来てしまったと(笑)。
(中略)
東浩紀(以下東)▼
これは僕の個人的な予測ですが、今回のコロナ禍はヨーロッパ思想にとってはのち大きな打撃として振り返られると思います。どういうことかというと、今回各国で起きたことって、まさにフーコーでいう「生権力」です。人の生き死にを担保としながら、人の生活の隅々まで権力が入っていく、その典型例だったんですね。
藤井▼全くそうなんですよね。古典的な権力である「殺す権力」とは違って、人々を「生かしつつ、管理、運営しよう」とする現代的な権力、そういう「生権力」と戦うために、お前たち欧州の知識人たちは論じてきたんじゃないのかって話ですよね。
東▼そうなんです。むろん、「生権力」拡大に気をつけろって言った哲学者もいました。例えばイタリアのジョルジオ・アガンベンです。ところが彼がそれを言った直後にイタリア北部で感染がブレイクし、すごい批判に遭ってしまう。
結果、「生権力」は確かに問題だけれども、今回のロックダウンや行動監視については、それを「生権力」として批判する行為の方が現実を否認していておかしいというふうに、ねじれた議論が多数派になってしまった。
誰がどう見ても「生権力」なんですが、そうじゃないということになった。コロナに関しては「生権力」ではなく「科学」なんだと。本当は科学と権力の結びつきこそが「生権力」の本質なんですが。
こういうふうにしてしまったことが、あと五年、十年経って振り返ると、「あの時リベラル知識人は何も現実を見なかった」と総括されることになると思う。そしてまた一段とリベラル知識人の評価が下がっていく。
藤井▼それは日本の方がもっと深刻ですよね。だって、欧米に比べればほとんど感染者数も死者数も増えていないのに、欧米レベルの生権力が発動されてるわけですから。
しかも、日本と同じくらいしか死んでいない東アジアの国々では生権力はほとんど振るわれておらず、皆自粛もせず自由に都市活動を営んでいる。日本の生権力こそ、最もおぞましい形で発動されてしまっているように見えます。
東▼ロックダウンや自粛について言うと、手洗い習慣の他にも、ヨーロッパは日本といろいろ違うところがある。
フーコーに「司牧権力」という言い方があるんですが、ヨーロッパの人たちは、都市というのは一つの「群れ」で、都市生活者はその中で生きている「群れのひとり」だと認識しているところがある。
だから、都市が自分たちを生かしているし都市を生かすためなら死んでもしょうがないという、そういうある種の関係性の中で自己規定している。それがヨーロッパにおける市民の感覚であって、だから彼らは「ロックダウンしなければならない」と言われたらする。
でも日本にそういう意識はない。
藤井▼だから自粛する時も他人の様子をうかがいながらダラダラと自粛していく。データや科学的分析の話なんて誰も参照しない。
東▼僕は今回のコロナに対しては、科学が負けたというよりは、科学に対して人々が杜撰なイメージしか持ってなかった、っていうことが明らかになった事例なのかなと思っています。一言でいうと、西浦教授が科学の代表に見えてしまった。
一同▼(爆笑)。
辻田真佐憲(以下辻田)▼
西浦さんが科学に見えてしまうのは、「大きな物語」が失われたことも関係しているのではないでしょうか。全体像が見えにくいからこそ、西浦モデルが「分かりやすい」ともてはやされてしまう。
歴史でも他の分野でも全く同じことが起きていて、それこそポリコレ的な「間違い探し」が横行しており、大枠の議論が細かい粗探しで潰され続けています。その結果、細部では正しいのかもしれないけれど、退屈などうしようもない議論が溢れかえった。そんな中へ…(続く)
(『表現者クライテリオン』2021年5月号より)
続きは『表現者クライテリオン』2021年5月号にて!
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『表現者クライテリオン』2021年5月号
「コロナ疲れの正体 暴走するポリコレ」
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コメント
コロナは大したことありませんが、陽性者を未だ感染者と言う馬鹿な大衆が日本を叩き壊して、改革だのコロナだのその度に巻き添え喰らうのはもうたくさんですね。
こんな糞みたいな国や社会で長生きしたいなんて気狂いの戯言。気狂いな他人に存在理由など私は感じません。
東さんは「ネットで世の中は変わらない」とおっしゃっていたと思いますがその通りだと思います。
金と食べ物がなくなれば人々はコロナどころではなくなると思いますが、その時が来るまでコロナ脳は騒ぎ立てるのでしょう。何を言っても無駄。後から反省なんか全くしません。反省しないから日本は壊されたままどころか破壊が加速しています。
私は昭和という時代を18歳まで生きれて幸せだったと思いますが、平成から今日までの日本は糞ですね。「差別されている、迫害されている」と宣う馬鹿は違う国の人達でしょう。
私はするなと言われるとわざとしたくなる性分でして、2倍3倍返ししますかね。だって「兄弟は他人の始まり」と言う様に同胞といえど他人なんでどうでもいいですもん。凄惨な事件も翌日には忘れてますし、知りもしない誰が亡くなったと聞いても30分後には忘れています。それにどんなに友達が多く見える人も、他人とは金や利害関係で繋がってるだけで、本当の友達などそれぞれ1人か2人でしょうから、他人なんかどうでもいいと言えばどうでもいいのです。
自粛派やポリコレ棒を振り回す輩達は馬鹿なんじゃないですかね。そんなヤツらはぶん殴って終わりっす。人はある程度生きれば単に死ねないから生きてるだけではないでしょうか。永遠に生きたいとか1秒でも長く生きたい思っている人はどれだけいるのでしょう。
日本は私や藤井先生の寿命がある間に急激に経済成長し、少子化が劇的に改善するなんて1000000%ありませんから、その意味でも日本に希望はありません。希望を持ちやれることをやるのは自由ですが、冷静に過去から今を鑑みるとそれは無いという予想が安易に成り立ちます。
それもこれも馬鹿に馬鹿と言えば怒る馬鹿国民のせいです。何かある度にポリコレ棒を振り回す馬鹿には、世の中にはもっと怖いものがあると教えなくてはならないですね。怖いものを知れば悪口言われた位で自殺なんかしないのに、悪口言った方のせいにするなよと言いたいですね。やられたらやり返せばいいだけです。どうせ日本人など臆病なんですから。
ところでコロナ脳の彼らは未だにゼロコロナを目指してるんでしょうか?馬鹿丸出しですね。コロナ脳は日本経済を叩き壊したツケは、先々において理不尽な奴隷になったり、強盗や殺人の被害者となって払うことも知らずに。
まあ、ザマアみろですわ。
先ずは現在の社会システムが、おおむね二百年前に西欧で確立した時から、国際社会のキャピタリズムは闇に閉ざされていたわけで、それをメディアで誤魔化しながら更にパンとサーカスを駆使し油断したところで、強権力を発動して奴隷にした【侵略と収奪】こそが近現代史から生まれた国際社会の実態なのです。
それだからお金のあるところに人々が集まり集団を形成して来たわけで、つくづく実感するのが類は友を呼ぶで、維新の会関係者のように打算的なカスが集まるとこには、打算的なカスしかいないわけで、メディア関係者のように間抜け面したアホが集まるとこには、間抜け面したアホしか寄ってこないこと。
これが国際社会を取り巻く姿だからドナルド・トランプ前政権が誕生しても全く信用すらしてませんでした。
しかし日本の学者で、しかもコロナ禍で四十二万人亡くなると豪語していていたのが、かの西浦博その人で現在まで訂正すらできない小学生以下のカスでしかないわけで、国もそれを放置しているのだからよっぽどのバカ野郎でしかないですよ!