私たちの傍らにある過酷な現実──映画『遠いところ』を観る

藤原昌樹

藤原昌樹

私たちの傍らにある過酷な現実

-映画『遠いところ』を観る-

藤原 昌樹

毎年、旧盆(今年は8月25日~27日)のときは来客に備えて外出を控えることにしているので、まとまった時間が取りやすくなります。積読になってしまっている本から数冊を選んで読むことを旧盆の個人的な恒例行事にしているのですが、それに加えて、今年は沖縄のコザを舞台にした映画『遠いところ』(2022年)を観ることにしました。

ドキュメンタリー的リアリズム──映画『遠いところ』が描く若者達の絶望

映画『遠いところ』は、第23回東京フィルメックス(コンペティション部門)の観客賞を受賞したことをはじめとして、国内外の映画祭で高く評価されていることもあり、既にご覧になった方も多いのであろうと思います。
実は、同作品が公開された当時から多くの人に「是非、観た方が良い」と強く薦められていたのですが、「希望を見出せない物語」「見ていて苦しかった」などといった趣旨のSNS上のコメントに臆してしまい、なかなか観る気になれなかったというのが、正直なところです。

この作品は「沖縄市コザを舞台に、17歳で母となった少女・アオイが直面する壮絶な貧困と、そこから抜け出せない社会の構造を、極限までのリアリズムで描き出した衝撃作」と紹介されている通り、ドキュメンタリー映画ではありませんが、かなり念入りに沖縄の若者の貧困の実態を調べていることが伺えました。
工藤将亮監督は、本作を製作するにあたって、数年をかけて沖縄の若き母親たちや支援団体への取材を行い、「劇中での言葉も実際に聞いた言葉や、児童相談所の職員の方たちから聞いたエピソードをそのまま脚本に反映しています」と語っているように、実際に沖縄で起きている出来事を脚本に盛り込んでいます。恐らく、監督が参照したであろう上間陽子氏による『裸足で逃げる』や打越正行氏(2024年12月に逝去)の『ヤンキーと地元』などといったエスノグラフィーに記録された建設業や性風俗業、ヤミ仕事に就いた沖縄の若者達やエピソードを想起させるシーンがいくつもあり、フィクションを超えた「真実の重み」を与えてくれる本作は「ドキュメンタリー的リアリズム」とも評されています。

例えば、物語の序盤で、主人公アオイの夫マサヤが職場(建築現場)で上司に叱責され、仕事を辞める場面が描かれていますが、その背景には打越氏が「パシリとしての参与観察」を通して見出した、沖縄の暴走族の世界や建設現場における「しーじゃ(兄貴分、先輩)・うっとぅ(弟分、後輩)関係」(打越正行『ヤンキーと地元』『沖縄社会論』)があることを示唆しているように思えます。

アオイを最も苦しめているのが、この夫であるマサヤの存在なのですが、彼はアオイを愛していると言いながら、その独占欲から彼女の自立を阻み、暴力で支配します。客観的に見るとアオイはマサヤから離れた方が良いことは明らかであり、アオイの友達も別れるように諭していましたが、アオイ自身が「マサヤがいないと生きていけない」という共依存の沼に沈んでおり、周囲がいくら「逃げろ」と説得しても、彼を捨てる決断ができません。
マサヤの暴力は、決して肯定や容認することができるものではありませんが、マサヤもまた、沖縄の貧困の連鎖の中にいる犠牲者の一人であり、彼自身も出口を見つけられずに暴走しているのです。彼を責めるだけで解決するほど単純な問題ではありません。

打越氏や上間氏の著作に登場するヤンキーや女性達のほとんどが「暴力による支配=被支配関係」や共依存の状態に陥っており、彼らによるエスノグラフィーを読むと、(決してそれが一般的という訳ではありませんが)あたかも「暴力による支配=被支配関係」や共依存の状態が、沖縄社会における一般的な男女関係であるかのように思えてしまうほどです。

また、アオイがマサヤからの暴力を受け、友達の海音(ミオ)に助けを求めたときに、駆けつけた海音がアオイに変顔をしてみせて笑わせ、一緒に記念写真を撮るシーンがありますが、これは『裸足で逃げる』で取り上げられた、キャバクラで働く美羽と翼のエピソードを想起させます。

翼が夫から暴行を受けた日の深夜、駆けつけた美羽は「大丈夫?」と声をかけるのではなく、暴行直後の翼の顔のように自分の顔にも殴られて青あざがあるような化粧をして「美羽もくるされた(殴られた)みたいな感じでやってきたよ!」と呼びかけ、一緒に笑います。

上間氏のインタビューに答えて翼は、美羽が離婚に向けて相談に乗ってくれたことや暴行を受けた自分の写真を記録してくれたことよりも、夫に殴られた直後に駆けつけてくれた美羽の行動が、何よりも深く印象に残っていると語っています(上間陽子「記念写真」『裸足で逃げる』)。

アオイの物語は、友達の海音がビルから身を投げて命を絶った後、絶望したアオイが児童養護施設から連れ出した息子の健吾を抱いて夜の海へと歩んでいくところで幕を閉じます。彼女が本当に死を選んだのか、それとも新しい人生への一歩を踏み出したのか、その答えは観客に委ねられていますが、私は、このエンディングを観て『ヤンキーと地元』に登場する真奈を思い出しました。

真奈は、打越氏が取材した洋介がオーナーを務めるセクキャバ「ルアン」で働いていた女性であり、同棲中の彼氏から暴行を受け、「クスリ漬け」にされたことから店を追い出されてしまいます。彼女は奇跡的にクスリを抜き、「ルアン」に復帰しますが、その直後に警察の「ガサ入れ(内偵)」で店が営業休止となり、紹介された店舗には馴染むことができず、洋介に「ルアン、まだ開けないの?」と何度も電話をかけてきます。
彼氏に殴られ、それまでとは別の風俗店で働かされ、その給料は彼氏に奪われ、代わりにクスリを渡されるようになった真奈は、しばらくして自ら命を絶ってしまいます。

すなわち、映画『遠いところ』の登場人物である主人公のアオイと夫のマサヤ、アオイの友達の海音にそれぞれ特定のモデルがいるという訳ではないのでしょうが、工藤監督自身が取材した若い母親たちや、上間氏や打越氏が沖縄で出会ったような若者達(ヤンキー達や若くして母になった女性達)の人物像と彼らのエピソードを融合してキャラクターを作り上げ、限りなくドキュメンタリーに近い形で、貧困に陥った沖縄の若年層が直面している「負のループ」の物語を描き出したと言えるのでしょう。

【最新号】

表現者クライテリオン 2026年9月号

【特集】「寛容」という暴力
〜あるいは健全な自文化中心主義エスノセントリズムの擁護〜

逃げ場のない地獄──抜け出せない「負のループ」

主人公アオイの周囲にいる若者たちは、誰もが自分達の親と同じ道を歩んでいます。中卒で働き始め、若くして親になり、金に困り、DVや離婚を繰り返す。この「負のループ」こそが、彼らにとっての日常であり、そこから抜け出すための方法(知識や支援)を誰も持っていません。そして多くの場合、両親や友達など彼らの周りにいる人たちや行政も彼らの助けにはなってくれません。

警察の「ガサ入れ(内偵)」でキャバクラを辞めざるを得なくなったアオイは、おばぁに連れられて金銭的な援助を頼むために実の父親(再婚して、新しい妻子がいる)を訪ねますが、父親は「なんでわん(私)が金を渡さんといけん」「女はいいさぁ、水商売でもなんでも金を稼げるし」「キャバクラでも何でもいいから働いて、ちゃんと稼ぎなさい」と言って2万円を渡し、「二度と来るな」と突き放します。
助けを求めて来た実の娘に対する父親の言葉として、あまりにも薄情であるような印象を受けますが、そもそも父親自身が「負のループ」に陥って抜け出せずにいるのであり、娘を助けるだけの余裕がないことが見て取れます。

また、アオイが助けを求めて行政の窓口を訪ねるシーンも描かれますが、そこで彼女を待っているのは、冷たい事務的な対応と「夫と別れなさい」「親を頼りなさい」などといった説教じみたアドバイスだけであり、夫から逃げることも親に頼ることもできないから彼女がここにいるのに、現行の制度はアオイのように「最も助けを必要としている層」を救い上げることができていないと指摘せざるを得ません。

アオイのおばぁは、アオイと並んで海を見ながら「健吾は自分が預かるよ。ちゃんと子どものことを考えないとね。健吾もあんたみたいになってしまう」と声をかけます。
物語を俯瞰して客観的に見ている観客には、アオイと健吾のことを心配して気遣うおばぁの気持ちが伝わりますが、社会の理不尽と不条理を突きつけられ、悲痛な思いを抱いて藻掻くアオイは、そのおばぁの言葉を説教としか受けとめることができないのかもしれません。そして、たとえアオイがその優しさに気づき、おばぁに助けを求めたとしても、おばぁ一人の力ではアオイを救うことはできないのです。

次の世代に残してはいけない問題を解決するために

映画『遠いところ』で描かれた「若年層の貧困」の問題は、沖縄だけの問題ではありませんが、沖縄において特に数多く、しかも極端な形で顕れているということも否定できません。沖縄の祖国復帰以降、沖縄の1人当たり県民所得は全国で最下位が続いており、その格差は拡がっています。子ども(17歳以下)の相対的貧困率は30%近い水準を推移しており、ひとり親世帯(母子・父子世帯)の比率でも全国1位(2025年5月公表「沖縄子ども調査」)、さらには若年層(19歳以下)の出産率でも全国1位となっているというように、その窮状は若年層に及んでいることが分かります。

「若年層の貧困」をめぐっては、「若いなら働けばいいのに」「もっと勉強していたら良かったのではないか」などといった声も聞きます。もちろん、彼ら自身に自助努力が求められることは否定しませんが、子どもは親や環境を選んで生まれてくることができる訳ではありません。彼らは否応なく親の世代から引き継がれてきた「負のループ」に陥ってしまっているのであり、その全ての責を彼ら自身に帰する「自己責任論」は酷薄に過ぎるのではないでしょうか。
前述の打越氏も、沖縄の貧困は、戦後沖縄の「歴史と構造」がその根幹にあることを指摘しています。この構造を問題としない限り、運よく誰か一人が「負のループ」から抜け出せることはあったとしても、今後も貧困はなくならないでしょう。

映画『遠いところ』のアオイとおばぁがアオイの父親に会いに行く車中の場面で、ラジオからニュースを読み上げるアナウンサーの声が聞こえてきます。

沖縄県の玉城デニー知事は、県庁で定例記者会見を開き、次期沖縄振興計画の骨子案を発表しました。会見で玉城知事は、持続可能な沖縄の発展と誰一人取り残さない優しい社会を築くという方向性で取り組んでいくと述べました。「自立・共生・多様性」をキーワードに「人間の尊厳を守り、誰一人取り残さない、沖縄らしい優しい社会」を県政の柱に掲げ、SDGs、持続可能な開発目標の推進に力を入れる方針です。子供の貧困対策を最重要政策に位置づける、新しい沖縄の振興計画を表明しました。

この「沖縄の振興策」に関するニュースが、切羽詰まったアオイとおばぁの耳に届くことはありません。「誰一人取り残さない、沖縄らしい優しい社会」「子供の貧困対策を最重要政策に位置づける」などといった知事の言葉は、ただただその車内によそよそしく、空疎に響くばかりです。

映画『遠いところ』のサイトやパンフレットには「映画、ではなく現実」「次の世代に残してはいけない問題がここにある」との文言が記されており、「知事、県議、市議の皆さんは真っ先に見て欲しい」とのコメントが寄せられています。

沖縄における「若年層の貧困」問題の解決に真摯に取り組むことを次の知事には期待します。誰が知事であったとしても根本的な解決は難しいことだと思慮します。しかし、少なくとも、自らをアピールするためのスローガンに終わらせることなく、沖縄の次世代のために本気で考え、解決に向けて取り組んでほしいと思います。
監督やスタッフ、役者たちが、沖縄の「若年層の貧困」問題に真摯に向き合って作り上げた映画『遠いところ』は、その入り口として多くの示唆を与えてくれることでしょう。

表現者クライテリオン 2026年9月号

【特集】「寛容」という暴力
〜あるいは健全な自文化中心主義エスノセントリズムの擁護〜

8月16日発売

【特集座談会】
移民受け入れの規準は「日本文化」にあり(施光恒×浜崎洋介×大場一央×辻田真佐憲)

【特集論考】
森本あんり/三浦小太郎/中田考/白川俊介/佐藤慶治/川端祐一郎

【小特集】「皇室典範改正」論議の空虚
インタビュー① 片山杜秀/インタビュー② 新田均

【特別座談会】追悼 桶谷秀昭 孤高の思想家は何を遺したか
新保祐司×富岡幸一郎×山本直人×小野耕資

【新連載】
柴山桂太/伊藤貫/小幡敏/大場一央/浜崎洋介/川端祐一郎

【流行思想解剖】
第1回 國分功一郎の確かな「敗北」について──『天皇への敗北』を読む

執筆者 : 

TAG : 

CATEGORY : 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

メールマガジンに登録する(無料)