少し前のことになりますが、3月5日に配信された藤井先生のメルマガ「今の日本の男達は、多分もの凄く、世界から取り残されています」を読んで、「その通りだなぁ」などと思っていたら、なんと、それを実証するかのような事件が起こってしまいました。財務省による「公文書改竄」事件です。
なるほど、財務省と言えば、これまでも日本財政に関する「デマ」を散々振りまいてきた悪質な省庁として(私たちの間では…?)知られています(藤井先生の『プライマリーバランス亡国論』を参照していただくのが一番いいとは思いますが、ここでは簡単な記事として、田村秀男氏の「森友問題より気になる…日本を衰退させる財務省の詐欺論法」を挙げておきましょう。)
しかし、それにも増して今回の事件は、日本のなかで何かが溶け出し始めているのではないかという印象を私に与えます。今日のメルマガでは、森友問題というよりは、この「公文書改竄」という一点に絞って話題を掘り下げてみたいと思います。
それにしても、今度の事件は、藤井先生の言葉を借りれば「命がけで生きる」ということをイメージ出来ていれば、起こり得なかった事件だと言えます。つまり、「『無気力感』が日本中の(今回の場合であれば、官公庁の)あらゆるところに蔓延し、何でもかでも『もうどうでもいいじゃん』ってこと」にでもならない限り、「公文書改竄」などという話は、どこかで止まっているはずの話であり、常識的に考えてあり得ない話だということです。
では、なぜこんな「非常識」なことが起こってしまったのか。
それについては、このニュースを聞いたときに私の脳裏をかすめた一つの言葉が手掛かりになるかもしれません。それは、ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」(『イェルサレムのアイヒマン』1965)という言葉です。
「陳腐さ」と訳されているのは「banality」のことですから、それは「平凡さ」とか「凡庸さ」とか訳してもいいようなものです。が、アーレントは、この「凡庸さ」という言葉を、ナチス官僚として数百万のユダヤ人を強制収容所へ送ったアイヒマンに対して使ったのでした。
一見して「極悪人」であるアイヒマンに対して、アーレントは、「自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった」一人の陳腐な人間、「悪人になってみせよう」という意志さえみじんもなく、ただ「自分の昇進におそろしく熱心だったということ」以外に何らの動機も見出せない一人の〈優秀=凡庸〉な官僚を見出したのでした。
では、この官僚的な「陳腐さ」「凡庸さ」は、なぜ「悪」と関係してしまうのか。
それを考える際に、呼び出したいもう一冊の本があります。時代は遡りますが、モンテーニュの親友でもあったエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』です。
たとえば、ボエシは、不条理な支配(圧政)を維持しているのは、「騎馬隊でもなく、歩兵団でもなく、武器」ではなく、実は「圧政者」の周りを取り囲む、たかだか四、五人の凡庸な〈自発的隷従者=小圧政者〉たちだと言うのです。
どういうことか。
ボエシは、〈支配の構造〉は、左翼的な二項対立――支配者対被支配者といった二項対立――によってではなく、その中間地帯、つまり「圧政者」に対して「こびへつらい、気を引こうとする」ことによって自らの保身を図り、逆に目下の人間に対しては「小圧政者」であろうとする人間(官僚)たちの、その「凡庸」な心理によって成り立っていると言うのです。
彼らは、その「圧政者」から自己利益を引き出そうとするがゆえに、常に「圧政者」の「意向をあらかじめくみとらなければ」ならず、さらに、その「命に従って働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さなければならない」のです。あるいは、「圧政者」の「ことば、合図、視線にたえず注意を払い、望みを忖度し、考えを知るために、自分の目、足、手をいつでも動かせるように整えておかねばならない」のです。
この上から下へと連鎖する「自発的隷従者」たちの糸が太くなればなるほど、その支配体系にNOと言える人間は少なくなっていきます。そして、ついには、どんな「悪」に対しても、自らの「自立」を譲り渡してしまうことになるのです。
なるほど、「自己の内在的な価値に対する認識が外的な支えをすべて失ってしまった場合、英雄のように確固たる精神のもち主でさえ、その認識を維持することは不可能」(シモーヌ・ヴェイユ「服従と自由についての省察」)なのかもしれません。
しかし、だからこそ私たちは、「圧政者」とその「隷従者」たちによる「共謀」の外に、自らの「支え」を担保しておく必要があるのではないでしょうか。
ボエシは、自らの「自由」の「支え」を確かめようとするかのように、こう書いていました。「したがって、たしかなのは、圧政者は決して愛されることも、愛することもないということだ。(それとは逆に)友愛とは神聖な名であり、聖なるものである。それは善人同士の間にしか存在しないし、互いの尊敬によってしか生まれない。それは利益によってではなく、むしろよき生きかたによって保たれる」(括弧内引用者)と。
さて、ここまでくれば、他者との「親密さ」、あるいは他者との「共通感覚」を守ることによって、自らの「思考」を守り続けようとしたアーレントが、なぜ次のような言葉を書かなければならなかったかも理解できるのではないでしょうか。
アーレントは言いました、「議論をすすめるために、君が大量虐殺組織の従順な道具となったのはひとえに君の逆境(アイヒマンが置かれた環境)のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それ故に積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持とは同じものなのだ」(括弧内引用者、前掲書)と。
果たして、アーレントの結論――「判断が周囲の人々のすべての一致した意見と逆らうものであっても、善悪を弁別する能力を持っていなければならない」という要求――は、厳しい要求だというべきでしょうか。私はそうは思いません。
ただ、「共謀」以外の絆を、階層秩序とは違う他者との繋がり方を知っていればいいのです。縦に延びる「隷従」ではなく、横の方に伸びていく「友愛」の喜びさえ知っていれば、私たちは私たち自身の「自立」の喜びを見失うこともないのですから。
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